ひろゆき

デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章のひろゆきのレビュー・感想・評価

1.5
銀幕短評(#729)

「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章」
2024年、日本。2時間、公開中。

総合評価 30点。

マンガ由来のアニメーション。いい映画ですよ。ところどころおもしろいシーンがありますから。おもには、あのチャン(声)のとぼけたセリフですね。しかし終盤になって空気がかわり、わたしは すこしコワくなりました。怖い映画は大幅減点です。あと本編を上映する直前に、「後章」の長編予告を大音響で しゃあしゃあ とかけるんですよ、この映画の広報担当は。わたしの予告編防御本能はいつもどおり、瞬時にじぶんの目と耳と口をふさぎましたが、完全には防御しきれなかったショックは 大きいものでした。マイナス10点ですね。というか、前編を観た感想としては、後編はもう観ないですね、予告編でだいたいわかってしまったし。


(おまけ)

「クィア(Queer)(にかぎらず性的少数者)について」

これは、前々回の「異人たち」(#727)につけるべきおまけでしたが、わたしの情報不足、思料不足で、2回次もちこししました。なので、これとまったくの同文を、「異人たち」のおまけとして、そちらにも貼ります。

以下、参考書の読書タイミング(初読と2度目の読了と)で時間が前後しています。またクィアをほかの性的少数者ととくに区別せずに書きます。

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“クィア”、このシンプルな単語をじぶんでネットで調べてもさっぱりわからないので、長編の解説書を買って、一日かけて(かなりの速読で)読みました(じっさいにはいま、かなり丹念に2度目を読み終えました)。そのみちの専門家ふたりが対話をしたコンテンツを文章におこした、すてきな本です。肝心の書名ですが、(クィアの立ち位置から発想しておられて)ややトリッキーなので、この拙文に目をとおしてくださるときのバイアスを除くために、それはこのおまけの末尾にしるします。

議論がかなりむずかしい内容(わたしの初見の理解度はせいぜい60%くらいです(二度目で80%くらいです))を、ふたりのキャッチボールで、わかりやすい対話として説き起こす。この本を読み進むにつれて、なるほどあれはこういうことなのかと納得します。クィアの概念や意味合いは かなり流動的でダイナミックであることが、すくなくともわかりました。またクィアにかぎらず、本書はLGBTQ+をオールラウンドにカバーしています。時間のあるときにゆっくり読み返します(と初見時に書きまいたが、たぶん3度目は当面読みません)。

以下、この書物がおしえてくれた思惟を基本的になぞり また引用しますが(と考えましたが、厳密に考えるとそれは著作権法に抵触するのでやめます。わたしは遵法意識がたかいのです)、わたしの思考があるならば、そう明示して記そうと思います。では、

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冒頭のわたしなりの総括

性にかぎらず、だれしもが個性や特質をもっています。たとえば、わたしのインスタグラムには、自己紹介として、アタマにこう意図的に書いています。

興味分野:地図全般、山登り、旅、夏目漱石、ドライブ、コーヒー、映画、カラオケ、読書、美術館、落語、高層建築、しりとり、花、フェミニズム、ポーカー、瞑想。

と。これは知らない人となかよくなるための話題を思い出すための、カンニングペーパーでもあります。どれについてもある程度の時間(すくなくとも1時間)は はなしをすることができる。わたしとは、こういう人間ですよと熱心に語れる。瞑想は冗談ですが。

つまりひとには誰も得手と不得手(ふえて)があって、おたがいが得手をほめ合って、不得手をおぎないあって、楽しくなかよく暮らしていくことが、世の理想ですね。

性的なことも同様なところがあって、おんなの得手不得手とおとこのそれをうまく両立し活用することが社会で必要だ。そして男女(女男)の単純な二分法(そこには害があると よくわかりました)に収まらない性のありかたを もつひとも多い。そういうセクシュアル・マイノリティ(性的少数者)の位置を占めるひとは、マジョリティから圧迫されるリスク(内容が性という個人的な要素であるだけに、さらに複雑なリスク ときに致命的なリスク)をはらんでいます。性的少数者のなかで多数を占めるLGBTに対して、さらに少数者(なのかな?)であるクィアに対する理解のしにくさを自覚し、おたがい傷つけあわずに、尊重し合える関係をきずける社会にしていきたい。そういう期待をもちます。

男女差別の回でも強調しましたが、ただしい教育(家庭なり学校なり)を適切な年令で(重層的に)ほどこすことがいちばん効果的で効率的のように思います。あとは、常識をはたらかせることが不可欠ですね。

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“クィア”は、手元の英和大辞典をみると、変な、風変わりな、などの形容意味が上位ランクとして挙げられています。そして語源の併記として、16世紀ドイツ語のqueer(中心から外れた)であるとしています。つまりマジョリティから(性全体、あるいはLGBTからも)隔絶されている、ということが語感にあるのでしょうか。

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ここで しばらく参考書籍の読み取り

著者たちは、クィアについて、こういうイメージをもつといいます。「世の中に背を向ける」「仲間に入れてもらおうとしない」「体制から外れている」などだと。

基礎の知識

LGBTQ+の意。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クィアあるいはクェスチョニング(自身の性や、性的に惹かれる他者の性について定めないあり方)。語順は最初はGLBTだったが、男性中心主義からの脱却をめざして、LG~と逆転させた。多種のマイノリティのアイデンティティを総称したながい略称として、LGBTQQ-AAPPO2Sなどがあるが、意味は省略。QQはクェスチョニングとクィアです。

クィアはLGBTの4種類からは離れた、「その他」という立ち位置のようです。しかし、ひとつの単語に収められたくない気持ちもある。たとえばLGBTQカテゴリー間の移行(トランジション)は50才代でもある。LやGだったひとがTになることもある。性はグラデーションで明確な隔壁はない。100%のおんなや100%の男はいない。それは単純なスペクトラム構成ではなく、むしろベクトルと考えるのが近い。男女二元論は、社会的な観点からもつねにリスクをともなう。そういう変化を、クィアというくくりは受容しやすいかもしれないといいます。

「クィアって、特定の人々のことを指すときもあるし、人の性質を指すこともあるし、関係性のあり方や性質を指すこともある」「あるいは、生き方や態度みたいなものを指したりもします。」

抜き書き(著作権法違反です)

・つよい差別にたいする意図的な反抗心を内包している。好戦的だ。
・クィアの当事者でないと、どう使ってよいか判断するのはむずかしい。
・「クィア」のことばを使ってでしかいいようがない経験がある。
・アイデンティティの揺らぎ(一貫しない、定まらない)を軽視しない。流動的になる。
・ふつうとは異なるひとびと(じぶん)が、ここにいる感覚。
・素朴なもの、きれいな部分だけに、なり下がりたくない。
・特定のパートナー(たとえば同性)と「ながく続くのが、まともな大人」では決してない。

LGBTからはずれる例としては、Xジェンダーあるいはノンバイナリー「男でも女でもない性だと自認している人」。アセクシャル・アロマンティック「恋愛感情や性的な欲望を他人に対して抱かないひと」などがあります。

重要な指摘
M氏:同性愛に関する研究の中で、カミングアウトの研究は一大ジャンル。
「みんなにオープンにしているか、全員に対して隠しているか」という対立ではとらえられない、複雑さ、繊細さがある。
N氏:究極の理想は、(性を)趣味程度の感覚でいえること。音楽はこれが好きです、くらいのレベルでセクシャリティについて言えて、そこに差別もない、というのが理想です。

マジョリティのひとが性的マイノリティのひとを「受け容れる」というのは傲慢であるが、)「受け容れる」の代わりのことばがなくてむずかしい。たとえば「当たり前のものとしてみなす」みたいな。

ここで思い出しましたが、用字として正しいのは、
性的指向(sexual orientation)、
ですね。つまりじぶんが(じぶんの恋愛感情や性的欲望が)どちら(どの性別に)を向いているのかということ。フィルマの投稿でよく見られる(ときに意図的な)誤りが、「性的志向」、「性的嗜好」あたりの用字です。わたしも気をつけないと、指向を見失なうな。

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わたしの雑考
(これらは少数意見ですよ。もし気をわるくされたらすみません)

①セクシャルマイノリティのひとが、自身の「性のギャップ」に ふかく悩むのは、それが幼年あるいは若年時の「気づき」によってもたらされるものであり、精神的な未完成さがその認知の激震に耐えることが難しいことによるのかもしれない。あるいは同年代の「マジョリティ」の若年ゆえの残酷さ(いじめなどの攻撃)が関係しているかもしれない。

②書物に仕上げる、研究者の姿勢に根ざすものだと思いますが、基本的にマジョリティ(世間)に対して不必要だと思えるまでの好戦姿勢、防御姿勢が そこかしこで感じられました。もうすこしゆとりのある、少数者目線ゆえの広い視野の提示がほしかったです。すごくいやないい方をすると「狭量」ですね。加えて悲しいのは、次世代(子の世代、その子の世代)を思いやることができずにいる。そこは自己本位だと感じました。

③被差別の立場に置かれているのでしかたがないと思いますが、差別に対する感覚が研ぎすまされ過ぎていないでしょうか? じぶんで研いだ刃を、当のじぶんに突きつけているように見えなくもない。マジョリティ(けっして差別側という意味ではありません)の不用意な意見かもしれませんが。

④このふたりが視線をむける第一がじぶんの「不幸」であって、その「努力」で精一杯になっている。じぶんの「不幸」をくまなく定義することに躍起になってしまっている。したがい ほんとうに大切なほうの「幸福」に思いをいたす余力に欠ける。ものごとの優先順位を誤っているように見える。

さいごの総括:

スタート地点からゴール地点までの、わたしの一貫した考え。

「ひとに迷惑をかけなかったら、まあなんだっていんじゃないんですか?」

性にせよ遊びにせよ、このポリシーはわたしの人生のおおきな心棒ですね。かつ、わたしは、ひとから多少の迷惑をかけられても、ある程度そのひとを支えてあげられる度量があるようにいつも努める。これはわたしの理想ですね。


(参考文献)
「慣れろ、おちょくれ、踏み外せ
性と身体をめぐるクィアな対話」
2023年7月、朝日出版社
著者 森山至貴(早稲田大学准教授)、能町みね子(文筆・イラストレーター)
309ページ、1,980円 Kindleは100円引きです
筆者たちは、ゲイとトランスジェンダーだとcome outしておられます。
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