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熱のあとにのmのネタバレレビュー・内容・結末

熱のあとに(2023年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

痛いほど気持ちがわかるので、そう言った当事者性?を持って映画を糾弾しようとするのは、ナンセンスだし卑怯だから嫌なんだけど、それでもこれは作り物だなと思った
橋本愛の目は決して死んではいないし、狂っていない。

演技や演出にも問題はあるけども、それはカメラのポジションが深く関係している。
ファーストショット、刺されたホストの元へ階段を駆け降りていく早苗のショットから、草むらを歩くシーンなど映画は常に彼女を正面から捉える。
特に、告解室では、足立を網越しに捉えたのに対して、早苗は何も通さずアップショットで映されるシーンはそれを明示している。

この映画は彼女の狂気、社会からすれば異常とも捉えられる愛情を初っ端から肯定してしまっているのだ。
この映画に必要だったのは肯定ではない。彼女を世界に肯定させるためには、映画はまず彼女を疑わなくてはいけないのだ。
彼女の愛情が作者や私たちとは似通っていたとしても、決定的に分かり合えないのだと言うことをショットで提示して欲しい。彼女の臨時的な感覚は、正面から捉えてしまうことで、堆積し持続する現在→過去として映る。バックショットにしても同じような問題が生じるだろう。カメラが、彼女が知覚するよりも先に物事を映してしまうことは、彼女の意識が過去にあることを忘れさせてしまう。
それで言うと、プラネタリウムでの早苗の横顔、過去のホストの男を捉えたショットは素晴らしかった。彼女が横目でしか見ていない彼の横顔には、ある種の客観的なサスペンスが存在している。
あくまで、彼女の瞳が何を映しているのか分からないということが、彼女の意識がここにはないと言うことに極めて近づく重要なポジションだったように思われる。私たちは彼女のカオを通して、彼女の意識に思いを馳せる。

その反面、この映画の卓越して素晴らしい部分、社会と彼女の壁がユーモラスに描かれているところから、この映画のスタンスが通常の映画には存在しない覚悟を持って描かれたことも強く感じる。仲野太賀を愛する女が家にやってきた時のあまりにも茶番すぎるキスとビンタの流れ(面白い)、プラネタリウムで完全に2人だけの世界に入って独白し続ける早苗に対して泣く少女、ラストのウィンカーを出したまま停車する早苗たちへクラクションを鳴らす世界。
徹底的に社会の側でなく彼女の側に立とうとすることの素晴らしさによって、終盤までの見事な流れを成立させている部分もある。

臨時的に生きている感覚、今ここに居ないという深刻な病からの復活を、こんなにも見事に描けている作品は今までにあまり観た記憶がない。
ラストのハンドブレーキをかけるショットは、監督にとっては彼女の愛の形は変わっていない、それを肯定したいと言っていたが、少なくとも私には、彼女の愛が過去に対してではなく今ここにとどまることを選んだように思えた。
「過去は繰り返せるよね?」と愛してやまなかった男に抱きしめられた時、その実私の現在はもうここには無いと言うことを自覚し、確かにお互いの時間が個別に流れ去ってしまったことを深く理解する。
再び現在の彼・仲野太賀の元へと戻り、彼から別れを告げられた時、早苗は「60秒見つめ合おう」と提案する。
道の真ん中で、右折するためにウィンカーを出す。自分の今が過去にあることを疑わなかった早苗が、ハンドブレーキをかけ、確かにここに居るという選択をして、初めて身体と心が一体となる。
カウンセリングを受けようが、愛した彼と一つになるために刺し殺そうが、どうしようもなかった心象が、こうも普遍的な行為によって変幻するのは見事としか言いようがない。

しかし、橋本愛の目は、過去を見つめていたのではなく、今ここにある身体としてカメラの前で存在してしまっていた。死んだ目をしている状態、愛を語っている状態、彼女を信じる依代が私には分からなかった。
桐生舞はというと本当に見事で、若干歯がうくようなセリフも、台詞として喋ることができていた。私のそばにはない現在を騙し騙し探しているといった切迫さが現れていた。(舞台挨拶でその片鱗を少し感じた)

余談だけど、この脚本を幾原邦彦とか庵野秀明がアニメ映画化したらとんでもないカルト作品になる感じがした。
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