ラウぺ

JFK/新証言 知られざる陰謀【劇場版】のラウぺのレビュー・感想・評価

4.0
1991年の『JFK』公開後からこれまでの間に新たに明らかになった事実と、変わらず謎のままであったり、解消されていない矛盾点を改めて洗い出し、ケネディ暗殺事件の真相に迫るドキュメンタリー。

映画の冒頭ケネディが平和について述べた演説の様子が紹介されます。
そこでケネディは「米国の力を背景に世界に強いる平和ではなく、犠牲から出る泰平でも支配による安全でもなく、人生に価値を与えてくれるものです。 ・・・それは米国人のみならず、全人類を対象とし、世代を超えて永遠に続く平和なのです。」
政治家の演説というものは美辞麗句に彩られがちであり、発言をそのまま受け取るのは危険かと思いますが、ケネディのこの演説には彼が目指すべき平和の姿が素直に表されていると感じます。
この演説を冒頭にもってくることで、凶弾に斃れたケネディの悲劇がより際立つのはもちろんですが、その想いに共感するからこそ、志半ばで斃れた若き大統領の死の理由を曖昧にすることは許されない、という監督の強い信念を感じることが出来るのです。

『JFK』でも強く示唆される事件の背後にはCIAやFBI、軍の情報部がそれまで行ってきた活動と逆行する政策をケネディが打ち出そうとしていたことを阻止するために暗殺が実行された、という仮説に基づいています。
オズワルドをはじめ、クレイ・ショーやデイヴィット・フェリー、デ・モーレンシルトなどはCIAの工作員であったことがこれまでに明らかになっており、そうした点において、ケネディの死には少なからずある種の人々にとって都合の悪い事象が原因となっているらしいことは間違いのないところでしょう。

今回の映画でも当日の出来事や証拠の数々に対し、次々と疑問を呈していきます。
まず最初に“魔法の弾丸”問題。
2人の人間に7か所の穿口を開けたにも関わらず、弾丸には殆ど変形や傷がないこと、遺体の中ではなく病院のストレッチャーに落ちていたところを発見されたこと、証拠物件として弾丸を保管したはずの人物の署名が断絶していることなど、次々に杜撰とも捏造の可能性さえある疑惑の数々を明らかにしていきます。
事件の前にオズワルドが入手したカルカノライフルが銃身の長さやスリングの位置などから犯行で使われたものと証拠とされたものとは異なる点を指摘。
オズワルドの逃走経路について明確な目撃者が居ない点。
検死記録の破棄や立ち合いの医師たちの証言などから弾の入射位置が前なのか後ろなのかが曖昧であるという点。
またケネディの脳が検死の最中に損傷の少ないものに換えられた疑惑。
当日からしばらくの出来事において、不審と思われる点は確かに多いと感じます。
ウォーレン委員会の報告書が、こうした子細に検討すれば本来初めから明らかになったであろう矛盾点を無視あるいは意図的に軽視して、オズワルドの単独犯行に初めから結論ありきであるかのような無条件の結論を誘導している点はやはり無視できない問題かと思います。

映画は更にオズワルドやそのほかの関係者の対キューバ絡みのCIA工作活動との関係に切り込んでいきます。
ピッグス湾事件の顛末やコンゴの非民主勢力クーデターへのCIAの関与、ベトナムへの介入の拡大といった点からダレスをはじめCIAトップの3人の更迭に至る過程・・・
なるほど、怪しいと思えば思う程ますます怪しく見えてくる状況証拠ではあります。
しかし、ここは怪しいことがヤマほどある、というところと現実に暗殺が計画され、実行に移された、という仮定を真実と認定するのは残念ながらシームレスな関係にあるとはいえないと感じます。
魔法の銃弾を巡る数々の謎や凶器のライフル、検死を巡る怪しい隠蔽の可能性といった問題は、そこに陰謀があったとする以前にさまざまな理由がある可能性があります。

我々は袴田事件で犯行当時袴田さんが着ていたとされる血染めの衣服が1年以上も経ってから味噌タンクから発見される、などという俄かには信じがたい出来事を見聞きしており、ひょっとするとケネディという魅力的な偉人の死を前に、明らかに犯人と思しき輩が突き出されて、とっとと犯人に仕立てあげてしまいたい、という心理が介在した可能性があるかもしれない、とか、またCIAの工作に関与する人物がオズワルドの周囲に居る、という都合の悪い真実が一般に知られる前にもみ消してしまいたい、という関係者の暗躍があったかもしれない。
仮にそういうことがあったとして、それはやはり明らかにされるべきですが、それが特定の地政学的力学の信奉者による意図的な共謀による暗殺であった、とするには明確な証拠の提示が明らかに足りない、と言わざるを得ないのです。
もちろん、事の重大性を考慮すれば、そのような可能性が僅かでもあるならば、それはあるのかないのか明らかにされなければ、社会正義が果たされたとは言えないでしょう。
一歩引いて常識的感覚で俯瞰するならば、このようなさまざまな矛盾点や不可解な出来事がひとつの共通の意思に基づく組織的な隠蔽であった、とするならば、関与した人物や組織の多様さは尋常ならざるものがあり、そのような大規模な陰謀が一般に知られることなく実行に移されるというのはあまりに無理がありすぎるのではないか?と思うのです。

オリバー・ストーンのある意味で凄いところは、この点についての政府への追及の容赦のなさが、真実を明らかにする、というジャーナリズムの目指すべき姿勢について、非常に大きな指針を与えてくれている、ということだと思うのです。
ともすると、陰謀論に傾斜する単なる“電波な人”になりかねないギリギリのところでこの問題をライフワークとして追及する姿勢こそ、やはり大切にしていかなければならない。

映画の終わりにケネディの公民権運動への情熱を感じさせる演説が紹介されます。
冒頭の平和へのケネディの想いとともに、公民権運動を前進させた功績は、20世紀後半のアメリカの歴史のうえで非常に大きなものがあった、と改めて思い起こさせてくれるのでした。
エンディングの途中から『JFK』のジョンウィリアムズのテーマ音楽が流れ、ケネディの遺徳を偲ぶに相応しい気分に浸ることができるのでした。
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