みや

火だるま槐多よのみやのレビュー・感想・評価

火だるま槐多よ(2023年製作の映画)
2.0
今から30年近く前、信濃デッサン館で「尿する裸僧」を観た時の衝撃は忘れられない。
その村山槐多がどのように描かれるのか、とても楽しみに映画館に足を運んだ。

印象に残ったのは、洞窟内での血のりに塗れた抱擁シーン、人々の舌のみにクローズアップした画像、棘と共に蠢めく悪魔の舌、ハンバーガーにかぶりつく薊の口元のアップ等々。これら監督の美意識が強く感じられた場面では、槐多の「尿する裸僧」や裸婦像などの情動的な表現との繋がりを感じとって、こちらの官能をぎゅっと鷲掴みにされた。
だが、自分がこの作品で最も好きだったのは、槐多の名の由来になったエンジュの木に、登場人物たちがそっと耳を寄せるシーンだ。
薊は、微笑みながら、エンジュの声に耳を傾ける。その表情からは、自分なりの理解と共感が感じとれる。けれども、他の者は、耳を寄せる行為は一緒だが、その時間の長短もそれぞれ、表情から読み取れる思いもそれぞれだった。
つまり、これは、エンジュの木(槐多の残した作品たち)と対峙した時の鑑賞者の姿のメタファーそのものに他ならないだろう。作品は作者の手を離れた瞬間から独立し、それをどう見るかは、鑑賞者に委ねられる。
世に言う「名作」と呼ばれるのは、語りたいと思う人が多く、様々な語られ方をしてきた作品だと自分は思っているが、その際に大切なのは、共に語りあう人の存在だ。このシーンでは、朔が耳を寄せているところに、薊がそっと寄り添って手を重ねる。そして、他の者達も、黙って次第に手を繋いでいく。
「わからないものはわからない」でいいし、知ったかぶってマウントを取りあう必要もない。感じたことを分かち合う中で、自分の中で何か新たな発見が生まれてくるところが、作品鑑賞の楽しさであり、醍醐味。このシーンでは、そのことが余計な説明なく、見事に描かれていたと思う。
それだけに、この映画の前提として、説明的なセリフや説明的な映像を差し込む必要が生まれてしまっていた様々な超能力設定が、自分には雑音に感じてしまったので、申し訳ないがこの点数。

薊役の佐藤里穂さんが素敵だっただけに、余計な設定なくシンプルに、槐多の「尿する裸僧」に惹かれて、ひいては性的対象としてまで思いを抱くようになった薊と、槐多の精神に共鳴し、自我を重ねようとするが、次第にズレを感じていく朔という2人の邂逅と相反といった物語も観てみたいと思った。
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