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アメリカン・フィクションのJFQのネタバレレビュー・内容・結末

アメリカン・フィクション(2023年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

前評判から抱いていたイメージと違い、丁寧な人間ドラマだったことに好感を持った。もっと「ポリコレいじり全開!!」みたいな作品だと思っていたので。

だからこそ、作品が言うところの「アメリカンフィクション」について少し丁寧に考えてみたくなった。

「アメリカンフィクション」とは何か?

まずは「作品の構造」のことを言ってるだろうとは思う。

あらすじをザッと振り返っておくと。
本作の主人公は黒人小説家。文学の見識もあり大学では文学史の講義も担当している。けれど、こういうタイプの人が書く小説はたいてい複雑であって「大衆ウケ」はしない。。

そのうえ、過去の黒人を扱った「差別用語満載の文学」について教えていたところZ世代の学生から「不適切にもほどがある!」と非難され、結果、失職してしまう。日本のドラマであればこの辺でミュージカル調になり、阿部サダヲと、全細胞が才能の塊の(笑)河合優実が活躍するのだけれど、本作では、単に職を追われ、郊外の自宅にひっこむこととなる。

その後も、母の面倒をみていた姉が急死。そのうえ母が認知症となり施設に入る金が必要となるなど人生追い詰められていく。

そこでヤケになった主人公は、ある作戦に出る。それは偽名で「ベッタベタな黒人小説を書く作戦」だ。「どうせ世の人々は貧困ゆえに不良となった黒人が犯罪を繰り返した挙句家族を銃撃してしまうような小説」が好きなんだろと。「虐げられてきた黒人の魂の叫び」みたいな小説が好きなんだろと。だったら、その欲望を叶えるベッタベタな物語を書いてやるよと。そうすりゃ金も儲かるんだろ?と。

すると。なんと、その目論見は200%叶ってしまう(笑)。ヤケくそで書いた小説はとんとん拍子で出版され、あれよあれよという間に「社会現象」となっていくのだった…。

ただ、それはうれしい反面、面倒を引き起こす。そもそも偽名で書いているうえ、主人公からすれば「これが売れるなら今までの俺は何だったんだ、、」という話になる。

だから「小説のタイトルをFACKにしろ!」とか必至に抵抗する。だが焼け石に水…。しまいには自分が審査員に選ばれた文学賞の選考会に「FACK」がノミネート。選考会では抵抗を重ねるも結局「FACK」は「大賞」に選ばれてしまう(笑)…そして栄えある授賞式…というストーリーとなっている。

映画は、こうしたストーリーを描きながらも、ラストパートで「夢オチ」のような展開をとる。

映像はいきなり黒味となり、場面転換。そこでは黒人の主人公が、白人の映画監督にシナリオを見せているシーンに切り替わる。つまり、今まで描いてきたストーリーは「映画の台本」だったと判明する。

そして白人監督から「オチが弱いんだよねえ」とかなんとか言われながら、「じゃあこういうのはどうすかね?」とかなんとか言いながら、大喜利的にいくつかラストシーンを見せる。で、最終的には「ベッタベタなラスト」で台本が完成する。。。

映画はこうした「劇中劇構造」を指して「アメリカンフィクション」と(まずは)言ってるのだと思う。

けれど、作品が言いたいのは「そういう話」ばかりではないだろう。「作品の構造」だけでなく「作品の内容(メッセージ)」にも「アメリカンフィクション」があると。そう言いたいのだろうと思う。

何がフィクションか?「白人の罪悪感が生んだ黒人観」を指しているのだろう。

実際問題、過去50年で黒人の富裕層は2倍に増えた。そのうえ、これまで黒人といえば「南部の農業地帯に住む人たち」か「北部・西部のコンクリートジャングルに住む低所得者」というイメージだったが、今や郊外に家を買う黒人たちも増えている。主人公もその1人であり、映画では、彼の郊外での生活が丁寧に描かれる。

にもかかわらず「過去に黒人差別をしてしまった白人たち」は黒人を今も「かわいそうな人たち」扱いする。黒人といえば、低所得故に麻薬か犯罪に走るか、劣悪な境遇を抜け出すためにラップかダンスかバスケかを覚え(笑)「特殊な世界のスター」になるしかないのだと。

けれど、主人公のような黒人からすれば、そうしたイメージは「ありがた迷惑」だ。

黒人にもいろんな人がおり、多様な可能性があるのに、結果的にそれを削いでしまっているのだと。

そうした白人(リベラル)が作り出したイメージこそが「アメリカンフィクション」なのだと。

そこは、今までの映画ではあまり言われてこなかった部分なので、なかなか面白いなと思った。

ただ、そうは言っても。現実問題として未だ「(構造的)黒人差別」はある。

例えば、低所得層に占める白人の割合は24%なのに対し、アフリカ系黒人の割合は約40%だ。

また2018年データによれば大麻の使用率は白人も黒人もほぼ同割合なのに、逮捕率では黒人の方が3倍以上となっている。つまり同じことをしていても黒人の方がつかまりやすい。そのうえ警官に殺された白人は全人口の9.4%に対し黒人は14.8%と明らかに多い。

また、細かなところで言っても、家を借りる際や、選挙の際などで、黒人は妨害され続けている。
「憲法上」黒人の人権は保障されようとも民間レベルでは差別が続いている。

表面上は「バスの前半分は白人、後ろ半分は黒人、真ん中は白人優先、、」的なものが廃止されようと「私立校には白人が通い、公立校には黒人が通い、でも、公立校は次々廃校にされる…」的な「ジム・クロウシステム(分離すれど平等=差別じゃなくて区別だよ!)(※注1)」的なものが廃止されようと「黒人差別」は今も続いている。

実際、だからこそ、2019年の白人警官黒人殺害事件=「ジョージフロイド事件」が起きた際には、全米を挙げての大規模な抗議運動が起きた。

あれを「まあ、ああいうのはイレギュラーだから…」と多くの人が思っていたら、あれほど大規模な運動は起きなかった。大なり小なり「ああいうことが起きてる!」と黒人たちにとって思えたから、あれほどの抗議が起きたのだった。

だとするなら「白人の罪悪感によって作られたかわいそうな黒人などフィクションだ」という主人公の世界観もまた「フィクション」ではないかと思えてくる。

もちろん、映画のシナリオ上は、そのことも描かれている。

たとえば主人公が、姉の勤める病院を訪れる際には、金属探知機による「入念な検査」が行われる。まるで「黒人は全てやべえやつ」だとでも言うかのように。また、ラストシーンで、白人監督に水をもってくるのはアジア人ADだ。

つまりは、今も白人による「意識的」「無意識的」「構造的」な差別が続いてることが描かれている。にもかかわらず、主人公は「売れない小説家」というコンプレックスを持っているため、その裏返しとして「いや、俺は弱者じゃねえんだ」と思い込みたがり、そのことが目に入っていない…。そんな様子が描かれるには描かれている。

けれど、「ヤケでベタベタに書いた黒人小説が売れちゃったストーリー!」のキャッチ―さに比べれば、地味な打ち出しになっている。なので、そこが目立たない。

だからこそ「ていねいに見る」必要があると思ったのだった。

だとするなら、何重にも張り巡らされた「フィクション」の隙間に透かし見られる「アメリカンノンフィクション」とは何なのか?そこに思いを馳せるべきなんだろうと。そんなことを思った。

※注1)「ジム・クロウ」とは、白人が顔を黒く塗り演じていた「間抜けな黒人キャラクター」のこと。日本でいえば「ラッツアンドスター」のようなものだ(古、、)。後に「黒人の蔑称」の象徴となり「人種隔離」の象徴ともなるのだった。
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