ちよ

軽蔑 60周年4Kレストア版のちよのレビュー・感想・評価

軽蔑 60周年4Kレストア版(1963年製作の映画)
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ゴダールはブリジット・バルドーをスクリーンに投影されうる限りの、究極のゴッデスとして完成させた。バルドー演じるカミーユは娼婦のような聖女であり、奴隷のような女王であり、少女のような女神である。バルドーは冒頭のアンドレ・バザンの引用にあるように我々の欲望を具現化した理想の肢体をこちらにさらけだすが、それは彼女に誘惑されているようでありながら、こちらが視姦しているようでもある。その圧倒的な美しさは我々観客の魂を理性と自我に容赦なく引き裂き、観客は求道者と強姦者という2つの極の間に横たわる広大な余白に放り込まれる。バルドーは自身の至高の肉体を差し出し我々の視線を受け入れながらも、それに対して彼女もまた我々に対して軽蔑の視線を投げ返す。その視線の前では我々はただラングとプロコシュの間で葛藤するポールのように、広大な余白の間を孤児のように彷徨うしかない。芸術と対面する時、我々は完全な求道者にも強姦者にもなれないからだ。映画は芸術でありながら、ポルノであることから逃れられない。映画は神聖でありながら、淫乱である。そして我々は映画を完全に芸術として鑑賞することもポルノとして消費することもできない。そこから我々が目を逸らし続けることをバルドーの眼差しは冷酷に告発する。彼女は自身を完全に客体化することで、我々観客を裁く権限を得たのだ。この状態の彼女を映画の女神と呼ばずしてなんと呼ぶか。
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