黄金綺羅タイガー

リンダはチキンがたべたい!の黄金綺羅タイガーのネタバレレビュー・内容・結末

3.5

このレビューはネタバレを含みます

マクラレンのシネカリ的表現のようにも、高畑勲監督の『かぐや姫の物語』的にも感じるメタモルフォーゼ的表現のドローイング。
ドローイング中心の作品ではあるが、日本のアニメーションのような商業化のなかで築き上げられてきたシステマティックなドローイングとは異なりアート寄りの作品である。
世界的に映画での興行を目的としたアニメーション作品の大部分が3DCGに置き換えられていくなかで、こういったものを作れること、それを映画として興行して成り立つのを可能としているのは欧州圏の文化的教養の高さにあるのだろう。
特にフランスは、ミッシェル・オスロ監督、シルヴァン・ショメ監督など世界的にも有名な監督が現役で存在できていることからも、世間のアートアニメーションへの理解の深さがうかがえる。

内容はといえば、欧州圏の人たちが好きそうなコメディといったところであろう。
僕個人的にはそういったものはあまりハマらないのだが、『Mr.ビーン』などが好きな人にはハマるような気がする。
こういうコメディに対して、あれはこういう意味だろうとか、メッセージ性がどうだとかいうのは粋ではない気がするのだが、僕のレビューは備忘録も兼ねているので、一応感じたところをサラッと書いておこうと思う。

現在の日本ではあんな大規模なストライキというものは日常ではないので、ああいう活動が当たり前のものとして描かれているのは少しカルチャーショックだった。
そのストが原因で本作は、本当は単純だったことがこじれて、とんだドタバタ劇に繋がっていくわけだが、その過程のひとつひとつがストライキというものやら、世相への風刺やらになっているように感じる。
世の中のストライキという集団活動のために“パプリカチキン”を食べたい娘と、娘に“パプリカチキン”を食べさせたい母親の、母子のささかやな願望を奪われることになったことで、どうしてもリンダの願いを叶えたい母のポレットは鶏を盗むという決断をするわけだが、これは会社組織というものから個人の権利を守ろうとする労働者たちの活動によって、リンダとポレットの個人的権利が奪われるという皮肉になっている気がする。
(というか、こんなことをツラツラ書かずとも、大体にしてストライキ自体がそういうものなのだけれども)

そして子どもたちの動きもストライキのそれと似通ったように描かれているように感じる。
はじめはリンダの“パプリカチキン”を食べたいという些細な動機だったものが、いつのまにか集団のムーブメントになり、そのムーブメントは動機がなんであったかさえ解らない人たちも加わった暴動になる。
暴動になったかと思えば、アメとキャラメルを撒かれればそちらに群がり、遊び道具の登場で秩序がなくなる。
子どもたちのこれらの行動は、ストライキなどの集団心理、活動を揶揄して表現しているように感じる。

また、本作は社会への風刺であると同時に母子が父、夫の死から立ち直る物語でもあるように感じる。
ポレットもリンダも、父が死んだということ自体は理解しているようには見受けられたが、心ではそのことを受け入れられていないように感じられた。
それが“パプリカチキン”を作るための騒動の過程で、リンダは父の死を受け入れ、ポレットは亡き夫の呪縛から解放されて、次の恋へと進むキッカケを得たように感じる。

その母子の立ち直りの物語も、“パプリカチキン”が元で大変なことになった街中の人たちも、最終的にはみんなで食事をして大団円というのがとてもフランスらしい。
フランスでは食事をするときにはただ食事をするだけでなく、食事をしながら家族や友人と話すことを楽しむという。
個性と自己主張の強い人たちがぶつかり合っていろいろあっても、食事をしながら会話をして自分の人生と想いを語り合って、お互いを認め合う。
そんな解決法も含めて、本作はとてもフランスの空気を感じさせる作品だと思う。