レインウォッチャー

リンダはチキンがたべたい!のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

4.0
記憶や想い出が、《色》つきで保存されていることってないだろうか。
鍵盤ハーモニカのドレミについていたシール。アルファベットのパズル。《ド》は赤で、《J》は緑?

なんでも、世の中には音を聴けば実際に色を「視る」人もいる(共感覚)ときくけれど、そこまで鮮明じゃあなくてもやんわり結びついたイメージ。
そこには、その人が歩んできた過去がモザイク画になって散らばり、胸の奥の泉の底に沈んでいる。時折、遠い水面から届くかすかな光を反射して、きまぐれな断片をよみがえらせるのだ。

今作は、もしかするとそんな感覚をもとにつくられたアニメーション映画かもしれない。
8歳のクソガ…じゃなかった、おてんば少女リンダが、むかし亡くした父の得意料理だったパプリカ・チキンを求めて奮闘する話。お母さんはどうやら料理がからきしっぽいんだけれど、娘に約束した手前もう後に引けない。実は似た者同士の母娘が、団地を飛びだして街の人たちも巻き込んで、騒動はみるみる大きくなっちゃう。

映画が始まってまず画面に浮かぶのは色とりどりのドットの形。その中にリンダや両親の姿が見えて、それぞれが担当のカラーを持っているみたい、とわかる。
リンダが黄色なら、お父さんは赤。お母さんは、その中間ともいえるオレンジ(リンダと父の想い出の間に立つ存在だからかも)。でぶな飼い猫は紫。大切な指輪は緑(※1)…そして、料理に欠かせないニワトリは、父と同じ赤。

そんな具合に、キャラクターやアイテムは色と結びついていて、画面の中を鮮やかに・有機的に躍動する。さっ、さっ、と絵筆のような線が走り、画面をラフに塗り分けていく。
セバスチャン・ローデンバック監督の前作『手をなくした少女』から引き継がれる、大胆な省略・抽象化(※2)が試みられた絵柄だ。ポップなんだけれど、水墨画のようでもある。誰もが想起するであろう高畑勲、そしてわたしは長新太(大好き)の絵本を思い出したりもした。

カラフルがはみ出しあって乱舞する中、実は最も強烈に印象づけられるのは《黒》だ。冒頭から記憶の忘却と紐づけて語られ、リンダが心の隅で一番おそれているのは父親の顔や声を忘れてしまうことなのかな、と思わせる。指輪や料理にリンダが執着するのは、そんな気持ちのあらわれなのかも、と。
だから、《黒》は子供にとっての大敵でもある夜の闇の姿を借りて、たびたび映画の中に現れる。黒の中で切り絵のように浮かび上がる色の輪郭。夜の車道を流れていく、人魂のような街灯の光。それらは画としてとても美しいけれど、同時に寂しい。

しかし、黒=無彩色とは、あらゆる色がごた混ぜになった結果の色、ともいえる。
ラスト、リンダとチキンを中心に集まった色・色・色のみんな。彼らはリンダにとってまた新たな想い出となって、彼女の奥へと飛び込み、黒をより濃く深く強くしていくのだろう。これは、リンダがちょっと大人になる物語であり、わたしたちに記憶との新しい向き合い方を教えてくれる映画だった。

さあ、あなたの《チキン》は何色でしたか?
そんなことを、頭に浮かんだ誰かに今すぐ聞いてみたくなる。泉からビー玉みたいに色のドットを掬いあげて並べたら、ねえ、いくつか交換しようよ。

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※1:赤=父の補色でもあるよね。

※2:暴れるニワトリの省略のされっぷり、笑いました。