パイルD3

ありふれた教室のパイルD3のレビュー・感想・評価

ありふれた教室(2023年製作の映画)
5.0
とても“ありふれた“どころの話ではない
ここでの“ありふれた“という言葉は、安心安全や平穏無事を約束している言葉ではない

どこにでもあるように見えても、小さなほころびからたちまちありえない姿に変貌する

良かれと思ってやったことが、全ての局面を悪化させてしまう話である
全てはある中学校の中だけで展開する

ドイツ語の原題「Das Lehrerzimmer」は教室ではなく、職員室のことを指している
英語タイトルも職員室なのだが、邦題は何故か意味を持たせて「ありふれた教室」と付けられた


【ありふれた教室】

頻発する現金盗難という悪質な行為に対して、学校独自で進める情報収集と再発防止という名の実質“犯人探し“が火種となって、不測の事態へと膨張していくストーリー

メディアではやたらスリラーという表記が目立つが、スリラーと言うより、「落下の解剖学」のような、崩壊寸前の心理に焦点を絞り込んだ人間観察劇

《学校側の初動》
こんなケースでは、校長を中心にインナーで事を進めるのは定石なのかも知れないが、傍目には今の時代にいくら犯罪に対して正当な大義があったとしても、個人の領域に一歩踏み込むのは危険な行為だと思えるが、ドイツでは当たり前のことなのだろうか?

元はと言えば、この学校側の全方向への配慮に乏しい初動が発火点なのだが、主人公の若い新任教師ノヴァク先生(レオニー・ベネシュ)が正義心からとった行動が、いつしか周りの教師たちと生徒たちの疑念と不信感を招き、個々のメンタル不和の引き金を引いてしまう
ドラマは、あえて余計な深掘りを避けながら、そのプロセスと一部始終を見せる

《まとまる…》
ある教師が対立し始める教師たちに放つ“意見は違っても、今、我々はまとまらなきゃダメだ“という一言は、このストーリーを最もよく言い当てているセリフでもある

生徒たちの団結力に対し、教師たちの結束は思惑と理屈の山で、まとまることはない…
無理矢理まとまった結果として、民主主義の限界を象徴するような戯画化されたようなラストも印象的だ

臭いものにはフタをする権力至上主義への警告でもある


《壁の向こうの本音》
作り手の思い入れも一切描かれないが、登場人物たちの生活風景も一切描かれない
学校の中で起こったことだけが描かれる

もっと言えば、主人公は新任の立場であるとはいえ、権威主義体制の学校側の言動には納得していないし、納得していないのに自己主張を控えて何かを押し殺し続けて、本音がどこにあるのかは見えにくい

観る者は、彼女の感情に近づいて流れを追うが、壁は最後まで壁のままで、答えは壁の向こうに取り残される…



◾️雑記
《作劇と作風の件》
イルケル・チャタク監督の、起点となるトラブルや事態に対し、各人物の人間性以上に、今何を考えているかに集中した作りはパワーがある
そんな演出を生み出したのは脚本(ヨハネス・ドゥンカー)が追い続けた緊張感とクオリティの高さでもある

《濱口竜介作品の匂い》
この、それぞれの立場から発する言葉の威力に圧倒されるのは、濱口竜介監督の作品の世界観に近い

《校内新聞=メディア》
本来社会的事件ならマスコミがたかってくるが、ここでは子供たちがメディア視点となって事件を記事として取り上げる
学校で配布するスクール新聞(購買対象の商品化されている)でありながら、その偏重報道は現実社会のメディアやSNSの陰謀論のような危険な意思撹乱手段を思わせる
学校が独立した小社会であることを示しつつも、実社会の縮図として見せている気がする

《子供の意思vs大人の賢明な理屈》
生徒と教師の立ち位置という意味では、先日観た「水深ゼロメートルから」に登場した女生徒と女教師のメイクの濃さに始まる言い合いを思い出したが、子供には子供の意思があり、大人には大人の賢明な理屈がある
この作品でも同じことが何度も繰り返される
…どちらが正しいかではないのだ

信用失墜ギリギリの領域に深く刻まれてしまった溝は、容易く修復など出来ない…



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