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ありふれた教室のmasatのレビュー・感想・評価

ありふれた教室(2023年製作の映画)
3.8
本年度、世界の中心の国の最高の賞において、外国映画の中では『落下する解剖学』(23)を軽々と超えていた。
この恐怖感は一体何なんだ?
何年かに一本、頭角を現す(フリッツ・ラングの國)ドイツ映画の圧倒感を浴びた。

その瞬間に“地獄”になる。ちょっとした齟齬でそこは直ぐ様そう化してしまう。
それは、誰もが知っており、身体に憶えのある事だ。
学校が、そう言う場所である、と言う事を憶えている。
未来へ向かう場所、可能性が最優先される、その名の下に全てが片付ける事が出来る場所。そんな希望に溢れる空間で有りながら、油断すると、様相が一転する世界・・・でもあった。あの場所は、実は、常に緊張感が漲っていた事を・・・思い出す。
そんな映画だった。

さらに、スクリーン・サイズは“スタンダード”。
光射す“広い”空間であるはずの場所が、狭く息苦しさを放つ。その窒息しそうな空間からの脱出を試みる為の闘い。唯一の武器は、あの“ルービックキューブ”・・・希望(と信じたい!)という名の武器であった。ラストで“あの彼”がホルスターから抜くかの様に出し、発射するあの閃光だ。

主人公の女教師役レオニー・ベネシュが圧巻。ザンドラ・ヒュラーより買う。
この映画の凄みは、彼女にあった。一年前に赴任してきた、以外、彼女が誰で、どんな人なのか?どんな生活をしているのか?を一々説明しないのが凄い。実は、得体が知れないのである。思えば、あの校長も生活指導の先生も、皆んなそうだ。いま、この瞬間の顔色と言動だけで判断するしかない、その判断を観客へと強いるのだ。

そんな主人公に観客は乗せられてしまう。
彼女のバックショットを、映画は執拗に捉え続ける。後を追い続けるカメラは、観る者を、学校という名の“闇”の“奥”へと誘って行く。
色々な戦場と衝突と後退を繰り広げながら、教室と言う名の“源流”と思しき場所へと行き着いた時、その場所、愛する教室での一対一の対決は、どっちが勝ったのか?(クルツか?ウィラードか?)

小憎たらしいカットアウトの後に現れるラストカットは、
それでも守るべき“尊さ”は、その子供である、と高らかに宣言するかの様に、まるで国王、王様のように担ぎ上げられている子供の孤高の姿だった。farewell to the KING!

勝ち負けや善悪ではない、未来へ送り届けたいかけがえのないものは何か?最優先で守るべきものは何か?を“社会の規範”に則ってクライマックスに現出させる。
それがルービックキューブと、神輿を担ぐ国家権力の姿で、鮮やかに突き付けてくるのだ。

ニューノーマル、コンプライアンス、ダイバーシティ・・・あらゆるものが交錯し、選択肢が多い分、より複雑化する世界=学校の実相が目の前に展開され、寧ろ社会の有り様が集約されている世界がそこにある。
複雑化し、それに囚われ雁字搦めになる大人の奇怪な姿、子供はトランスフォーメーションし、先鋭的になり、寧ろ歪な姿にさえ見えてくる。
驚きの現実が次から次へと飛び出す、恐ろしく目を見張るイントレランス・クルーズ、だ。
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