ひでやん

清作の妻のひでやんのレビュー・感想・評価

清作の妻(1965年製作の映画)
4.4
一対多で描く究極の愛。

イタリアへ留学し、かのフェデリコ・フェリーニやルキノ・ヴィスコンティから映画を学んだという増村保造。 その映像が持つ力というものに圧倒され、魅了された。今作はとにかくカット割りが素晴らしい。見下ろしたと思えば見上げるアングルや構図、まくられた着物の裾から露わになった脚→背中→足というシーンのつなぎ。鎖のアップショットから足→引きの画→足というつなぎ。「行ってきます」→新聞の活字→「おかえり」で描く戦争。そして「個」対「集団」で描く反戦と愛。

一家の生計を支えるため老人に囲われた女、お兼。老人が他界した後、かつて逃げるように離れた村へ帰り、村八分同様のお兼が村一番の模範青年と恋に落ちるが、折りしも日露戦争が勃発。そして戦場に行く清作と離れたくないお兼が取った衝撃の行動…。

お兼の究極の愛を悪とするなら、その愛に石を投げる村人も悪である。そして、一番の悪は戦争する「国」だ。国の中の村の中の個人は無力である。惰眠から覚ますために清作が鳴らし続けた鐘は、戦死=名誉という思想から覚ますためのようにも思えた。世間の「目」ばかり気にして大切なものが見えなくなった目。その目を閉じた時、人間の本質が見えてくる。

「売国奴、非国民、卑怯者」という村人の声が痛い。その石つぶては見る側の心にも向けられる。石を投げる者と投げられる者、それは学校や職場、SNS時代の現代社会にもある構図だ。抗うより流される方が楽だが、嫌な事には抗いたい。「戦争反対」なんて言うと地獄を見る時代が怖ろしい。

戦争と引き合いに出すのはちょっと違うけど、コロナのワクチンね、絶対に打った方がいいという同調圧力が凄かったが、今思うとあれはなんだったんだろう。
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