宙崎抽太郎

未帰還の友にの宙崎抽太郎のレビュー・感想・評価

未帰還の友に(2023年製作の映画)
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● 反戦映画ではなく稲妻映画な
『未帰還の友に』福間雄三監督
(アップリンク吉祥寺)


【人間は稲妻】である。てことは、オレも、私も、稲妻だったのか!という普遍的衝撃を受け、司会進行に佇んだ『未帰還の友に』。これは【稲妻映画】なのだ。

ほしのあきら(敬称略)がアフタートークに呼ばれ、氏から、司会進行を仰せつかった。

ヒロインまさこの短パン姿【生脚の衝撃】冷めやらぬ戦時中、太宰治的主人公は、弟子学生を連れ、酒を求め、店の主人を拝み倒し、隠し酒を飲みつづける。すでに【酒は神】であり、奉るほどの貴重品だ。私などの寝酒に一杯など何の感慨もない酒への接し方には大反省を迫られる。しかし、それは、本題ではない。

【人間は稲妻】である。稲妻は、大電流を大放電し、樹木などを焦がし倒すのだが、もしかして、オレ、私も稲妻かもしれない、否、かもではなく、きっと稲妻なのだと映画から、啓示を受けた私は、令和日本、現代人である私は、稲妻ではなく、電気で良いのではないだろうかと、少し及び腰になった。【人間は電気】である。これなら取り扱えそうである。

稲妻というからには、放電、交流、交感、すなわち【恋】への邁進かと思いきや、この戦争時代、【ブラック企業的国家】のデスマーチに巻き込まれた【未帰還の友=若者】は、恋、交感、交歓の末、恋人を精神的に叩き斬るのである。切り捨てる。おいおい、今時、そんなストイックなことする奴いないぜ!と思うが、この映画の今は、令和日本の今ではなく、昭和ド真ん中、戦争ド直球の【今】である。今は今でも【違う今】であり、しかも、その【違う今】が【今】なのである。今生きてる令和日本の私の【今】が【今は昔】となることは、時間が流れるものである以上、今でありながら昔であることは否めず、対等関係において、すべての【昔は今】である。

ほしのあきら曰く【リアルなようでリアルではい】。そう、物語中盤の少し前くらい「新宿ローズ」で行われる芝居と集団踊りが行われる舞台背景として据え置かれた【狂った書き割り】が物語る【真面目に戦争を描いてる】ように見せながら、実は、そんな気は【全然ない】のではないか、【リード≒触り≒キャッチ≒シーンの出だし的トーン】だけ時代的状況に合わせつつ、本来、その現実描写には体重を預けていない。もしかして、この映画は、描かれている具象の中に、描かれていない【余白】が内在しているのではないか!と脳をスルーして身体へと電流し【リアルなようでリアルではい】その映画世界にゆっくりと引き摺られていく。匍匐前進、銃剣による刺殺訓練、ジャングルでの遭難に近い進軍、象徴として提示されても、我々の戦争映画データを凌駕する気は毛頭なく、自分が現代人として蓄えた戦争データで自分で補足せよ!と言わんばかりの進み口は、しかし、太宰治的登場人物の語り口によって、しっかりと土台化され、能で言うところの「月」と言ったんだから、お前が月を見ろよ、と見るものの仕事を奪わない【余白】含みの伝統芸【夢幻能】を思わせる。太宰治没後75年企画映画だから、映像による追撃よりも、【太宰の語り】自体が映画の【骨格≒根本】なのだ。

この映画は【面白い、面白くない、よく出来ている、よく出来ていない】という単純なプラスマイナスの計算ではなく【如何にして変で、何が変で、何ゆえに変なのか】という小さい【振動≒違和感≒ズレ】から、掴み直したほうが、映画から受け取った、何らかの【身体≒電気】信号を、より自分に納得可能なものとして受け取り直すことができやすいのではないかと思われた。個人的に今ブームな町田康による町田文学の創作法【毎日書いて、自分の常識を乗り越え、自分の本当に至る、本当の変梃に至る】をそのまま分析法に逆立ちさせれば、その【作品≒映画】の【本質≒魂】を、より正確に産婆できるのではないか。そう、何かが変なのだ。【リアルなようでリアルではい】。しかし、じゃ、この映画にとってのリアルとは何か。【人間は稲妻】である。

【人間は電気回路】である。【死んだら何も無くなる】のだ。ちなみに、電気工作物の精度、価値、質は、【絶縁体≒電気を通さないもの】の強度によって決まる。配電所など大電流が扱われる場では【電線≒電導体】を電気的に宙空に浮ばせ、感電、被電、事故を起こさぬように【絶縁体】である碍子などに、50万ボルトなどの大電流を事前に与えて【耐圧試験】などを行う。【電気の良さ】を生活に活かすためには【電気を通さないもの】の下支えが必須となる。恋をしたから、恋を断ち切る【未帰還の友】。真似はしたくないが、否、私が真似する境遇は、今後訪れることはなかろうが、時代や戦争の前提条件から離れて、脱臼させ、その人の普遍的かつ擬似絶対の【純粋選択】として受け取らねば、申し訳が立たない。そう思わされた。だから、戦争を捨象し、自分にも通電する普遍的通路を再度、拾いあげたい、そんな焦りを、司会進行しながら、暗に抱いていた。ひとつの前提において、ひとつの電気回路が抱き、実行した選択を、あえて耐圧試験に合格した【ひとつの選択】として、正しさ、悲しさではなく、ただの【ROCK≒変】として受け容れること。好き過ぎたので、絶縁体することによって、その電気状況を永遠化した。しかし、それは、バーン!と稲妻になった途端に消えて無くなるわけですが、消えたはずなのに、映画として、見た人に伝えられてしまう不思議。

安田登によると、能は武士階級の嗜みだったそうで、敗者の怨念を、何か言いたいことを、【シテ≒主役≒霊】に【カラオケ≒舞≒空桶≒木霊】させ、暴れるだけ、暴れさせて、最後は消化する、いわば、ゴジラ劇のようなものらしい。そして、無いものを無いままに脳内現実、拡張現実、ARとして、観客の馬力によって魅せる芸能。つまり、実は映画とは、上映する際に、一番、仕事をしているのは、観客なのである。監督はすでに作り終わり、仕事は完了している。しかし、観客は、現在形で、自分が【映画の今】を全身で再現することになる。ひとりの役者ではなく、映画全体の役者として、映画の語る【もの】を自分の中に再現前化するのだ。

現代映画の主人公は、一番多くを物語り、場に立ち会うが、能から、見ると漂白の乞食僧、疲れ果て、座り込んだ場に、突如乱入する【荒ぶる魂】のパフォーマンスを無言にただ受け入れる【ワキ】に過ぎないのかもしれない。言わば、ギリシャ劇のコロスであり、ゴジラ-1.0のCGの代わりを太宰治の【語り】が担っているのだ。

戦争映画というジャンルを脱臼させ、普遍性に至る可能性として、この【未帰還の友に】は【余白】が内包されていた。期せずしてか、期してかは、別として、その感じうる、読みうる【余白】が、この映画の可能性だ。

● 未帰還の友に
https://mikikan.com

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