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父としてのdm10foreverのレビュー・感想・評価

父として(2023年製作の映画)
3.7
【「父として」「父だから」「父なのに」】

(あらすじ)
父として、仲間として、そして男としての思いを巡らせる本作では、トランスジェンダーの子を持つ5人の父親が、ゲイであることを理由に大学生の息子マシュー・シェパードを殺害されたデニス・シェパードと共に、オクラホマの片田舎に釣り旅行に出かけます。
川に釣り糸を投じながら、父親たちは、人種も地理も世代も超えて心を通じ合わせ、誰もが抱える子供たちへの無条件の愛を語り合います(Filmarksあらすじより)。

これは「母として」という視点で作れば、また違ったアプローチの映像が残ったんだろうな・・・っていう印象。
でも「だからこそ・・・」なのかなっていう気もした。

「親」という共通項以外、子供に対する考え方も接し方も結構バラバラなことが案外多い「父」と「母」。
でも、実はそうやってお互いが役割を分担しながら子育てをしていくという点では「共同作業の最たる例」とも言えるのかもしれない。
両者の基本的な方向性さえ合致していれば、そのアプローチが多少違っても子供は決して迷う事はない。

でも、やっぱり「母だから」という側面、特性、考え方が存在するように、「父だから」というものも同じく存在する。

それは決して「相容れない」とかそういう事ではなく、「父として考えなければならない事」「父だから与えられること」「父なのに踏み込んであげられないもどかしさ」など、もしかしたら、お母さんだったら悩まずに済んだような事ですらも、父という立場に変わったとき、それは途端に「悩み」に変わってしまう事だってあるのかもしれない。

この作品では、子供たちが「トランスジェンダー」としてカミングアウトしたという経験をもつ父親5人が、それぞれの苦悩を語り合うために郊外の川辺にあるコテージで釣りをしたり食事をしながら、お互いの環境や苦悩について語り合います。

「多様性」「世間体」「普通」「父性」「自立」「愛情」「容認」「理解」「視線」「差別」「暴力」・・・・

父として子供と向き合う事、もしかしたらお母さんが「母として」子供と向き合う事とは違った結論が生まれるのかもしれない。
それまで夫婦で一緒に描いた「子育てMAP」には無かった出来事が起きたとしたら、その時になって初めてそれぞれの考え方や受け止め方が試される。

こればかりは「一般論」は意味をなさないのかもしれない。

そこに「子」がいて「親」がいて。
互いに向き合う事もあれば、逆に向き合う事を拒むことだってあるだろう。
そうやって、自分の知らなかった子供の一面を必死に手探りで見つけ出そうとする。
他人には理解も共感も出来ないどんな些細なことであったとしても、そこで「子」と「親」が真剣に向き合っているのなら、誰も口を挟むべきではないし、茶化すようなこともあってはいけない。

・・・でもね、「父」って不器用なんですよね。
これってやっぱり「お腹を痛めていない」っていう部分が、自分でも気が付かないくらいの深い部分で「母と子」のような繋がりを感じきることが出来ていないのかもしれない。

「わ~dmさんのお子さん、ホントdmさんにそっくりですね~。目元なんてまさにdm二世ですわ」

そういう客観的な評価の一つ一つで一喜一憂してみたりするのも、もしかしたらお父さんの方が強いかもしれない。
(お母さんには自分に似ていようが似てまいが、自分のお腹の中から出てきたっていうこれ以上ない「自信」がある)
お父さんって、無意識にお母さんをそうやって羨んでるかもしれない。

・・・だからこそ、必死に理解しようとする。必死に受け入れようとする。
そしてもがけばもがくほど空回りする・・・。

ここに出てくるお父さんたちは、みんな必死に「そんな作業」をしたんだろうな・・・って気がする。
我が子がトランスジェンダーとして生きていくと決断したことに対してではなく、その事実に「父として」どう向き合うべきかで迷った人たちだったんじゃないかな・・・って。

それ自体は当たり前のことなのかもしれないけど、やっぱり「父」がしてあげられることの限界が見えた時、急に自身の生き方の方向感覚までわからなくなってしまうのかもしれない・・・。

それにしても、アメリカ(っていうか欧米?)ってこういうグループセラピー的なものが盛んですよね。
宗教的な価値観なのかもしれないけど、ある意味「告解」の簡易版みたいな感じなのかな?
罪とまではいかなくても、誰かに話すことで「赦し」が得られるみたいな。

日本人って自分の内面を晒すことは恥ずかしいっていう価値観がどうしても強いから、なかなかこういうのって文化的に根付かないし、日本でこれをやるとどうしても「自己啓発セ〇ナー」みたいな、ちょっといかがわしい匂いもしてきそうな気すらしてしまう。

それはさておき、このお父さんたちは別に自分が悪いわけでもないし、まして子供たちが間違ったことをしたわけでもないのに、それでも「集まって語り合う」。
それはやっぱり「共有」を求めたってことなんだよね。

ずっと心のどこかで消化(昇華)しきれない何かがずっと残っていて、でもそれは悪い事ではないから教会で告白するようなことではなくて・・・・。
だからこそ「弱いところを曝け出せる場所」って必要なんだろうね。
その「弱さ」を受け止められるのは「神父様」ではなく「同じ人間の父親」って事なのかもしれない。
特に「お父さん」って、やっぱり強く逞しい人であって欲しいっていうイメージに苦しんでいる人だってもしかしたらいるかもしれないし・・・。
そんなお父さんが欲しいのは「神の赦し」ではなく「同じ感覚にいる人の共感」なんじゃないかな。

多様性を受け入れるということ。
それは「違いを認め合うこと」であり、同時に「同じ考えを持つ人達が寄り添い合う事」もそうだと思う。
他人と繋がること全てが「多様性のゴール」だとしたら、「違い」も「共通点」も他者に対する評価の一つでしかないはずだから。



お父さんだって色々あるんでさ~ね~。
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