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ゴースト・トロピックのきのレビュー・感想・評価

ゴースト・トロピック(2019年製作の映画)
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カンヌ国際映画祭やベルリン国際映画祭で注目を集め、現代のヨーロッパ映画シーンで最も重要な若手作家のひとりともいわれるベルギーの映画作家バス・ドゥヴォス。これまでに長編4作を監督、『ゴースト・トロピック』は長編3作目とのこと。ブリュッセル郊外を舞台に、終電車を逃した掃除婦が帰宅するまでを描く、一夜の小さな旅路。あまりにも静謐ながら、編み込まれた世界の全貌にひれ伏す大傑作だった。16mmフィルムの淡い美しさ、暗闇があまりにもきれいだ。これは人生ベストになりそうな予感。

誰もいない夕暮れどきのリビングルームから少しずつ光が失われていく長回し。金属音、犬の鳴き声、車のクラクション。そこにささやき声が重ねられる。「でももし突然/赤の他人がこの部屋に入ってきたら/その人は何を見て何を聞くだろう/ここで何かを感じるだろうか?/私は恥を感じるだろうか?」

まるでエドワード・ホッパーの絵画が滲み出てきたようでいて、赤や白熱灯のような鮮やかな色彩と漆黒のコントラストが静かな真夜中のブリュッセルを映し出す。疲れ果てている彼女はそれでも家に帰らなければならない。歩き始めた彼女を捉えるカメラが、いままで定点だったのに、急に滑らかに移動する、そのシーンに重ねられる抒情的な音楽、それだけで、安らぎと寂しさを感じてしまって、冒頭から恐れ入る。そして、このちいさなちいさな旅路では、無理を聞いて、閉店後のデパートのATMを使わせてくれた若い警備員(しかし、おろせる残高が残っていないという厳しい現実も挟まれる)、道端で死にかけているホームレスをほうっておけない彼女が呼ぶ救急隊員との2度目の邂逅、そして犬。ホームレスが搬送された先にいた看護師たちや閉店間際のコンビニでハディージャを迎えてくれる女性店員……、夜に生きる人々の人生と交差する瞬間が幾度とも訪れる。とても孤独な夜なのに、温かさを感じさせる瞬間が忘れられない。移民やシングルマザーのように、さまざまな状況で権利を奪われているだれかとだれかの人生が共鳴するからかもしれない。冒頭でみつけた海への看板。移民として、夜遅くまで働く彼女にとって、そこは現実離れした場所で、その広告も現実に即したものではないのだろう。けれど、ラストでその唐突に夜から昼間、太陽が燦々と輝く浜辺に放りだされるのは、とても希望的だった。眠っている都市の裏側、簡単に夜のすばらしさを全面に肯定するのではない警戒心とそれでもこの世界にあふれる人々(と犬)の優しさが組み合わされた心震わせる傑作だった。
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