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ノスタルジア 4K修復版のTnTのネタバレレビュー・内容・結末

ノスタルジア 4K修復版(1983年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

 今までは詩的かつ難解映画の評判を受け入れていたが、どうもそれは違うのではと思えた。まったきアジテーション映画だ。また4K修復は、あのタルコフスキーマジックともいうべき映像魔術の粗を見つけるでもなく、さらに繊細な明暗表現を浮かび上がらせていた。

 今作は彼のフィルモグラフィーの中でも主張したいことがかなり明確だ。女性の幸福とは何か(昨今のフェミニズムと言われる映画よりも洗練されてると感じた)、言語による対立は克服できるか、環境と人類の問題などなどが語られている。難解なのは映画でなく、現実問題であるこれらの問いなのだ。この難題はその難題ぶり故に、今の時代の目で見ても全く変わらないし、当時既にこれらの問いに直面していたタルコフスキーは素晴らしいなと。しかしどれひとつこの映画と同じままの状態で現代にも立ちはだかる。

 難解さの一つに今作のミニマルな演出が起因してるようにも思える。一番論理的なカメラであり、それは映像だけで説こうとしており、その文法を理解しないと意味が伝わらない。映像の原理主義。一切の装飾的な効果の無いカメラワーク。

 エウジニアの抱える女である悲劇。よーいドンもまともにできない格好(ヒールでコケるとこ)。使用人のように主人公に扱われ、宗教の場では女性でなく母として歓待される。そんな彼女が選ぶ道は資本家の権化みたいな彼氏。どこにも彼女が真なる生き方が為されない。また好きだった女がきな臭い野郎に取られるという主人公の屈辱感が、電話越しのジリジリズームに表れている(ある種のNTRっぽさがあったとは気づかなかった)。

 主人公はというと、何もしない皮肉屋、冷笑主義者っぽい。またエウジニアと妻が結ばれる夢を見るのだが、そこには「8 1/2」的な人物像があるのではと思った。また祖国とイタリアとの間でも揺れている。そして自らの死を持って夢の世界の祝祭を受けるという構図も「8 1/2」近い、これはキリスト教的な観点からなのか。しかし、「8 1/2」よりも深刻である。エウジニアと妻との揺れは、エウジニアの愛を、まるで聖人然として生きるアンドレイには受け入れられないが、一方でまた隣人を愛せよ的精神もアンドレイは持ち合わせており、その矛盾に苦しんでいる。エウジニアとアンドレイの切り返しカットは殆どがすれ違っており、カメラが引くと大抵彼らは背中を向き合っているのだ。

 絵に描いたようにぬるま湯に浸かる人らからの野次、そして燃えるドミニクに無反応な大衆。この大衆との距離がキツいものがあった。ドミニクが燃え尽きて訴えた所で、わけもわからず泣いてしまった。あれは、観客である私もまた、ドミニクの訴えの前で沈黙した大衆と同じであったからか。劇場だとより痛ましいシーンだった。

 境界を無くそうというアンドレイやドミニクの主張に対して、この映画はもっぱら壁と窓、そしてその窓から覗く先も壁ばかりである。目玉はダイヤモンド…しかしどれも岩窟に閉じ込められたものだ。私たちの目は、この頭蓋という窓から覗くだけだ。その壁は決して免れない。ラストの"救済措置"でさえ、あの石造りの建物という区画からは脱せない。冒頭の回想でさえ、家の扉から覗いた景色であることが明かされる。

 この映画における横移動はひたすら徒労として映る。壁に囲まれた空間であるからか。またエウジニアの行き来、その後のアンドレイのロウソクの行き来にもそれを感じる。映画のスクリーン自体が壁のようで、我々はドメニコ(=監督)によって家(=映画館)に閉じ込められたと言えよう。

 そしてその家(=映画館)から解放された時、世の中の奥行きに気がつく。渋谷を出て晴れた世界の抜けるような奥行きに感動する。それはあの少年が見た世界の終わりと同じ感覚か。しかし、ひしめく人の群れはドメニコの演説を無視したあれらの人にしか見えない。この世の中で、あの意思を聞く人はいないのだと、孤独感を感じた。解放された子供でありつつ、閉じ込めた側の意見もわかるという状態、私はどうするべきなのかとしばらく考えた。答えは出ない。
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