浦切三語

正しいアイコラの作り方の浦切三語のレビュー・感想・評価

正しいアイコラの作り方(2024年製作の映画)
3.5
私のようなボンクラ映画好きでも、この映画が(というか原作小説が)何を指標にしているかはおおよそ検討がつく。それは、ファーストカットにおける主人公の一人称と台詞の調子を見れば明らかだ。おそらく原作者は森見登美彦の作品、とくに『四畳半神話体系』をやりたかったのだろう。後半のあるシーンにおける主人公の独白台詞なんて、まんま「四畳半神話体系」の「私」が口にしていた台詞でびっくりした。さすが、私も長いこと遊ばせていただいている小説無料投稿サイト「小説家になろう」で連載されていた作品なだけあって、自由な原作小説だ。

映画製作者たちも、そのこと(つまり原作の持つニュアンスがキャラクター小説に近いこと)をある程度認識したうえで、こうした作りにしたのだろうというのが伺える。前作「階段下~」がそうだったように、今回も「実写でアニメっぽいことをやりたいんだろうな」という演出がまあまあ見られ、そしてそれらの演出は、おそらく原作に最初からあったのだろう、アニメやマンガ(ガンダムとかジョジョとか)や探偵ドラマ(右京さんだったりポアロだったり)に代表されるオマージュ台詞の連発や、カリカチュアされた演技に始まる、現実の学生生活をデフォルメしたアニメ「っぽい」雰囲気と、かっちり合わさっているのかというと、やっぱりどこか合ってない。妙にズレている作品なのだが、これもやっぱり「階段下~」と同じく、飽きて寝ることはなかったので、不思議な映画体験をまたもしてしまったという具合だ。

私個人はこの映画を「記憶や過去の乱雑さ」について描いた作品だと見ている。主人公が中学生の時点で一人称が「私」というのは、いかにも早熟な雰囲気を匂わせるが、私なんかは単に「大人になった主人公の回想形式だから、一人称が“私”なんだろうな」と考えて観た。だとしたら、回想シーンの画面の色調をセピア調にしたり(そんなミエミエな演出ダサくて誰もしないだろうが)何かしらの工夫をするものだと突っ込みが入りそうなものだ。

だが考えてみてほしい。私たちは自分の過去を回想するとき、脳内で過去の出来事の色調を変えるだろうか。私たちは過去を振り返るとき、よくできた物語のように、一本筋の通った順番で出来事を回想するだろうか。この映画の、特に高校生編あたりのように、あっちに話が飛んだり、こっちに話が飛んだり、そうした「乱雑さ」を無意識のうちに発揮して過去を回想しているはずだ。

台詞の読み方にしたって、ダイアローグのやり取りにしたって、よくできた映画で表現されているそれら諸要素が「劇として丁寧に加工された」要素であるのに対し、私たちの記憶というものは「劇」でもないし「丁寧に加工された」りなんてしていない。会話の断片。やり取りの断片。適当な相槌。適当な風景。そうしたものを自らの脳内で自分に都合良く、丁寧というにはやや口が重くなるようなテイストで編集し、回想してはいないか。そのように「自分に都合よく適当に編集した過去」を皆が無意識のうちにしているから「思い出を美化する」という言葉があるのではないか。それを表現するにあたり、この映画では「河原で拾ったくせにあまり汚れていない、きれい目なエロ本」という小道具で表現している。

私たち人間の記憶というものは、案外適当で雑なものである。その雑さというものの表現を、この映画では「アイコラ」という、まだ日本全体の空気がいまと異なる「ある程度の雑さ」が許されていた「過去」の遺物というかたちで仮託している。映画の終盤、過去に主人公がヒロインの顔写真で作った、それこそ「雑コラ」としか言いようのない青春時代の恥部を、「いま、ここ」の現実と接続している時代で話題に出し、モニター越しにお互い笑い合って「こんなこともあったね」と適当に流すシーンがある。あのシーンにおける彼らの姿を通して見えるのは、この映画が持つ、「まだ、何かが許されていた時代」に対する、ある種のノスタルジーである。そう考えると「正しいアイコラの作り方」というタイトルも、意味深に聞こえてくる。やたらと「正しさ」が標榜されているこの時代にあって、むしろこの映画は「正しさ」の反対にある「おおらかな雑さ」を表現しているように見えたからである。

それでいいじゃないか、と開き直るわけでもない。あくまでも淡々と撮り、ともすれば、人によっては「雑なつくり」にも見えてしまう危険性を孕んでまで、こうしたことを作品として表現できてしまうのが、この映画の恐るべきところではないか。「キレイな正しさ」「たったひとつの正しさ」だけを求めるのに皆が閉塞感を感じている時代に、こうした「おおらかさな雑さ」に代表される寛容性を基底の部分で謡っている映画が公開されたことには、意義があると思うのである。
浦切三語

浦切三語