まず、映画の入りが好きだ。ラジオに流れるメッツファンたちの言い争い。シリーズで3連敗もすれば、望みはない。そのヤケクソとチーム愛とが、くだらないが切実な争いを生む。
そして、朝子どもを送迎していく車内での子どもたちとハーヴェイの言い争いも微笑ましく滑稽である。
しかし、子どもたちを降ろすやいなや、彼はコカインを吸引する。そこから彼の醜悪ながらどこか間の抜けた悪事が描かれていく。その一連のシークエンスのおもしろさ。
彼は悪事のカタログのような存在である。賭けをする。クスリをやる。性に身を委ねる。もちろん酒ならいつでもポケットに入っている。
だから、彼はシスターの無償の愛と赦しを強固に感じたとき、思わず崩れ落ちた。ふっと、かすかなる疚しい良心にのしかかった重みが一挙に消えたからだろうか。そして、彼はキリストを幻視し、跪くのだった。
しかし、思えば、彼がシスターに近づいたのも、復讐を代行することで、彼女を欲望したからに違いない。そして、彼がキリストを見ることができたのも、クスリとアルコールで酩酊していたからである。彼はとことん堕落し、悪事を企てていたがゆえにこそ、神の子の顕現を目の当たりにした。
そこに、絶対的な醜悪さと邪悪さが、絶対的な真善美としての救済に転化する契機がある。
あっけないまでのラストシーンも、聖なるものとも俗なるものともとれる。だが、それは一体のものであるのだ