Habby中野

劇場版 再会長江のHabby中野のネタバレレビュー・内容・結末

劇場版 再会長江(2024年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

まさしく旅であり、まさしくドキュメンタリーである。それはカメラが振り回される撮影機材としてでも驕りのある神の目としてでもなく、その場への参加者としてある屈託のなさと、冷静さを保った的確な構成や語りの織りなす、自由で、身体的で、しかし自己本位では決してない目線によるものだ。カメラが旅の一員としてそこにいて、語りは語りたるものとしてある。
ここまでカメラが「どこにいるのか」を示す映像はなかなか見たことがない。時に長江の絶景を空撮で捉えるカメラは、これが空撮であると自ら説明する。長江の河岸に住む人々と交流する時は被写体の一人でもある監督と共にその輪に入り込み、時に驚き、戸惑い、さらにはカメラマンが別のカメラに撮られたりもする。これらはつまるところ映画的な無私の、あるいは神に擬態したカメラなどではなく、「クルー」として旅にカメラが参加していることの証左である。しかし一方で、そうしたテレビ─いやともすればYouTube的個人撮影的な親密さに、説得力を持たせるのが、第三者(小島瑠璃子)による語りだ。最初、プライベートな監督自身の語りと、パブリックな位置にいる小島の語りの混合には困惑した。物語進行と情報付与、などの明確な役割もなく、ある種気まぐれのように、取材当事者と無関係な第三者の語りが共に物語を進行していく。だが映画が─長江を遡る旅が─進むほど、リズムが立ち上がってくる。長江河岸に住む人々の生活、そしてこの10年でのあらゆるものの変化が猛々しく眼前に迫る中で、カメラが捉える監督の動揺(そもそもこの人は監督としての役割を少なくとも劇中では果たしていない。彼は語り手として、そして主人公としてそこに立っている)、そのプライベートなレンズに映る世界の確実な一端を、第三者の語りがパブリックなものとして保留する。このバッキングが、この旅を自己満足な個人撮影にも他責的な劇映画にも陥れず、個人の身体的経験を着実に伴った、生々しさのある「ドキュメンタリー」へと押し上げている。
……こんな構造的な話を書きたいわけじゃなかったのに。
でもこの映画のその説得力の正体が捉えられた時、そのテーマについてはもう何も語る意味がなくなるように思う。つまりそれはアジア最長の川を遡行しながら10年の時の経過を辿ること、翻せば時の不可逆さに立ち向かうことだ。数年後にはなくなるであろう荷役で家族を養う老人の逞しさと厳しさ、廃れた船上レストラン、かつて世界に屹立した女性優位社会の緩やかな解散、ダムに沈んだ町、夢を諦め出稼ぎに出る女性。長江の絶景にこの時の流れは容赦なく波打つ。そして10年前の出会いで人生が変わったであろう者の美しい成功。再会、そしてその涙の中にある、計り知れない思い。過去と、その先にある現在。その旅の道中で、時間が変えたものと変えなかったもの。時間の中で変えられてしまったもの、それでもなお変わらなかったもの。
旅の終盤では、再会ではなく新たな、しかもなんともドラマチック(?)な出会いがある。その劇的さはあまりに印象的だ。ゲルで生活するこの遊牧民が、太陽光で発電し、スマホを扱い、一方で漢字が読めず中国製の洗濯機の使い方がわからない、この「時間と人間」の関係の源流のような人たち(無知で無礼な言い方だろうか)こそが、アジア最長の川の恵みを最上流で享受しているという事実に感じる世界の一端。
時間は─自分という世界の中ではなく、それよりも外で大きく流れる時間というものは、あらゆるものを少しずつ、消費という悲劇的意味も伴って、解きほぐしているように思う。長江の最初の一滴、その正体は時間とともに小さくなっていく氷河の一端であり、その健気な一滴の流れの先で、人々の生活は緩やかに瓦解していっている。無限でなさと、それでも手の届かない遠さ。
それが合流し、飲み込まれる。長江は舞台であるが同時にテーマそのものであり、また時のもたらした変化はテーマであるが同時に時間とともに終わりへ向かうこの映画そのものでもある。川の遡行と時間の順行。それはどちらも、何者かによる一つの視点で定められたただの方向だ。でもそこにはそもそも方向などは存在しないのかもしれない。川を流れる一滴がそれを知らないように。われわれは時を観測するべきではなく、方向のない旅の流れの中にいつもいるのだと、自覚してもいいのだろうか。本当の意味での「再会」はもう叶わないのだから。

”私たちが固体だと思っているものも、実は液体のように流れているのよ。私たちの時間が速過ぎるだけ……”(『すべてがFになる』森博嗣)
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