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アインシュタインと原爆のtanayukiのレビュー・感想・評価

アインシュタインと原爆(2024年製作の映画)
2.9
ドキュメンタリー作品というより歴史番組の再現フィルムといったおもむきで、作品としての評価は下げざるを得ないんだけど、タイミング的にも『オッペンハイマー』のサブテキストとして見られることを意識してつくったのだろうから、そういう意味では、ナチスより先に原爆を開発しないとたいへんなことになると、国家をあげてマンハッタン・プロジェクトに取り組んだアメリカの、そして科学者たちの切迫感を理解するには、多少は役に立つかもしれない。

ドイツで迫害されるユダヤ人の同胞を救うために、ユダヤ人学者が反ファシズムの声を上げるのは当然すぎるほど当然だし、ドイツが原爆実験に失敗したといってもそれは結果論であって、大戦中にそれを予見することは難しかったわけで、アインシュタインやオッペンハイマーを責めるのは筋違いだと思う。思うけれども、彼らが自分の犯した罪(他人から押し付けられたものではなく、自分自身の後悔と深い反省からもたらされる罪の意識)を抱えて苦悩するのは避けられない。自分だって、そういう切羽詰まった状況で、それができる頭脳と知識と経験と人脈があったら、使命感に燃えて取り組んだに違いないと思う。自分たちがやらなくても近いうちに間違いなく誰かが成功しただろうから、実はそれほど彼らに選択の余地はなかったのではなかろうか。実際、戦後すぐにソ連が核実験に成功しているわけで、原爆も、その後の水爆も、理論上可能だとわかった時点で、あとはいつ、誰が(どの国が)成功するかの違いでしかなかった。

そう考えると、アメリカではなく、ナチスドイツが、スターリン体制下のソ連が先に核を手にしていた未来も十分ありえたはずで、原爆反対!悪魔の兵器をつくった人間も同罪だ!と叫ぶだけでは、残念ながら、何の問題解決にもならない。いってみれば、アメリカとドイツとソ連と、どっちが先のほうがよかった? という究極の選択を迫られたときに、自分なら、アメリカのほうがまだマシだったと考える。あくまで消去法にすぎないけど。

ドイツが降伏したのだから、すでに敗色濃厚だった日本にわざわざ原爆を落とす必要はなかっただろ、という意見もわからないでもないけれど、たぶん、アインシュタインが言っていたように核実験の恐ろしさを世界に知らしめるだけでは、核開発を止めることはできなかっただろうし、実際に使われてみないことには、核兵器はそうやすやすと使っちゃいかんのだ、という万国共通の理解も得られなかっただろう。警告だけで踏みとどまれるほど、人間は理性的ではないというのは、歴史を見れば明らかだから。

ドイツやソ連が先に核を手にしていたら、最初に被害を受けたのは日本じゃなかったかもしれないが、それでもどこかの国に投下され、お互いに使うに使えない核を大量に抱えて冷戦に突入するという構図は、そんなに変わらなかったのではないか。そのとき、日本が、戦前の全体主義の軍国主義体制のままのほうがよかったか、それとも、敗戦後の平和路線がよかったか。原爆を落とされ、戦争に負けた日本では被害者感情のほうが根強く残っているが、間違いなく加害者でもあったわけで、ドイツが原爆を先に手にし、枢軸側が勝利していたら、日本は冷戦時代の鉄のカーテンの向こう側の国の1つとなっていただろう。そっちのほうがよかった? 

△2024/04/27 ネトフリ鑑賞。スコア2.9

追記:
人類のためになると信じて研究を続けてきた物理学者は、人類滅亡の引き金を引く大量破壊兵器の開発に手を染めて、大きな後悔に包まれた。人間の好奇心にも欲望にも際限がなく、そのことで人類文明はここまで発展してきたのだけど、このまま無条件に、無制限に、勝手気ままにやっていていいのだろうかという反省から、いま、生命倫理の世界ではじめて、科学者たちが自らの好奇心に制限をかける取り組みをしているのは注目に値する。だが、いくら科学者たちがクローン人間開発にストップをかけても、生まれてくる赤ん坊の遺伝子治療+遺伝子操作=人為的な選択は、すでにビジネスとして立ち上がりつつあり、これは、形を変えた優生学(ネオ優生学、あるいはリベラル優生学)ではないかという批判がある。

ナチス時代の国家主導の優生学と違うのは、現代の遺伝子の人為的な選択は、誰かに強制された結果ではなく、個人の自由意思でやっているという点だ。これを止めるのはきわめてむずかしい。むずかしいのだけど、生物進化の歴史を見れば、ある環境に適応して特定の方向に遺伝子を収斂させていくと、その環境下では支配的な地位を得られるかもしれないが、環境が激変した瞬間、絶滅に追いやられてしまうという現象がくり返されてきた。つまり、生き残りのために求められるのは、むしろ遺伝子プールをできるだけ多様に保つ(それによって、激変した環境に適応できる種が生き残る確率が上がる)ことであるのは自明の理なんだけど、どういうわけか、進化論を意図的に誤った方向に解釈する人が後を絶たない。

生命倫理だけではなく、AIとロボットについても、今後、人類は規制の枠組みをつくっていくことになる。欲望のままに生きてきた人間は地球環境を破壊し、自分たちの首を絞めることになってしまった。地球を何度も破壊できるほど大量の核兵器も保有している。今度は、生命/人工生命の創造という神の領域に、いまにも手が届きそうになっている。私たちは自分の首に首輪をはめることができるのだろうか。
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