少女は2度死ぬ。
14歳のわたしが見なくてよかった、
24歳の私が見てしまったけど。
思い出した。
わたしは毎日ピアノを弾いてお家にいるだけで幸せだった。
毎日絵を描いて、リビングで過ごすだけで幸せだった。
おばあちゃんにドレスを買ってもらって、ピアノの発表会に出るだけで幸せだった。
そこで小さな花束をもらうだけで幸せだった。
3時になればお母さんの手作りのパンやケーキを食べた。
手にお絵描きをした時のペンの跡がついただけで執拗に石鹸で手を洗い、擦り続けた。
砂や土を触るのは怖くて、できるだけ外遊びはしたくなかった。
遊具を触った後の鉄臭い匂いが嫌いだった。
ディズニープリンセスになりたくて、写真はどれもおすまし顔だった。
それなのにいつからだろう。
何も知らない自分に悔しさを覚え、好奇心だけで今、誰もいない東京に、1人、いる。
コルセットをつけていることなど知らなかったときにはもう戻れない。
外し方を知ってしまった私は、あの頃のわたしではない。
私ですらあの頃のわたしを忘れていた。
消失していたと言ってもいいと思う。
どこにいったのだろう。
だけど確実に私はここに存在している。
私がいるから、わたしもきっとどこかにいるんだろうか?
あの岩山の向こうに?
私にとってのあの岩山とはどこであり、何であるのだろうか。
でも全て知ってしまった気がする。
だから全て知ってしまって絶望するしかないと、解っている人が好きだ。
美しくないと存在する意味なんかないと嘆いている時に見せていたら発狂してただろうな。
日本も災害大国だから古来から自然崇拝的な思想が根っこに息づいているけど、やはり大自然の国、オーストラリアもそうなのだなと感じさせる描写が多かった。