KnightsofOdessa

私が存在しない日々のKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

私が存在しない日々(2002年製作の映画)
5.0
[1日ごとにしか存在できない男の物語] 100点

人生ベスト。ジャン=シャルル・フィトゥーシ長編三作目。ルイス・ミゲル・シントラ演じる謎の男がアントワーヌという名の幼い甥にある物語を語り始める。それは2日に1日しか存在しないアントワーヌという男の物語だった。真夜中24時になると次の日を飛ばしてその次の日の24時1分に遷移してしまう彼には、昨日と明日という概念が存在せず、起き上がると新聞を読んで必死に知らない"昨日"を埋める日々を送ってきた。そんな彼が最も避けていたのは他人、特に女性だったが、肉屋ですれ違ったクレモンティーヌの魅力には抗えなかった。こうしてアントワーヌはクレモンティーヌと共に生活することとなり、自分が存在しない日々のことを一層強烈に意識することになる。まず、映画は見事に生と死、光と影が交代していく。ロールという少女が病床にある老人に会いに来る昼間のシーンの次に、夜にロールが電気を消して寝るシーンというように。最も分かりやすのはアントワーヌとクレモンティーヌが映画館で映画を観るシーンで、二人の顔がスクリーンの光によって明るくなったり暗くなったりするのだ。ここで、これらシーンごとに訪れる明滅こそが映画であることを気付かされると同時に、二人はそれらを前にして身を寄せ合うのだ。また、付き合って2年が経ったある日、二人は郊外にある公園の池でボートに乗る。そこでは、頑なに二人を同じ画面に収めなように厳格に切り分けられたフレームの中で、二人に当たる光の量がいきなり変化するカットがあり、クレモンティーヌにとっては2年だがアントワーヌにとっては1年という意識のズレを視覚化したようでもあった。滑らかさを意図的に消し去ることで、アントワーヌの人生をも視覚化するのだ。現実と非現実の接続という意味では『私は死んでいない』のラストシーンを思い出した。
また、二人を頑なに同じ画面に収めようとしないショットの数々は、必然的に生まれる妙な空間が孤独感や断絶を思い起こさせると同時に、不在者の存在を画面に刻み込むようでもあった。

物語の中心にある、アントワーヌの消滅も見事だった。アントワーヌ目線では日付が変わっているだけで大きな変化はないが、クレモンティーヌが加わることで、その差異が浮かび上がる。最初に登場する失踪シーンで、アントワーヌのいないベッドが少しだけ映り、すぐに次の日の夜に彼が同じ体勢で寝ているカットへと切り替わる。一方、クレモンティーヌが初めて彼の失踪を目撃するシーンでは、瞬きしたらいなくなっていたような時間の隙間に彼はいなくなり、彼の居ない部屋で一日を過ごし、夜になって再び同じベッドの同じ位置に戻ると(映画上の)10分前と同じ構図で彼が戻ってくるのだ。この視点を転換した見事な反復は、カットの間で省略された膨大な時間を認識させ、後にアントワーヌが至る"10年ごとに起きる"という決断への思考を予想させるものとなっている。また、上記の明度の違いも含めて、比喩的な意味における"他者との時間感覚の違い"を視覚化しているものでもある。

必然的なすれ違いによって、クレモンティーヌは最も残酷な方法でアントワーヌとの関係を終わらせる。それは、彼が復活する場所を別のもので埋めることで復活を阻止するというもの。『亜人』の殺し方じゃん。しかも、そこで協力者が選んだ"別のもの"というのが、彼が必死になって読み込んでいた新聞、つまり"彼が存在しなかった日々"そのものなのだ。なんて残酷なんだ…
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