稲葉光春

私の愛を疑うなの稲葉光春のレビュー・感想・評価

私の愛を疑うな(2023年製作の映画)
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面白かったです。分かりにくいとか言われてる意味がわからない。

【前提】
「透明」とは元々は1997年の神戸連続児童殺傷事件の犯人酒鬼薔薇聖斗が犯行声明文で使った「透明な存在」に由来している。これは同調圧力の中で子供達が代替可能な存在にされることを意味している。本作品の監督である浅田若奈さんが影響を受けたであろうアニメ監督の幾原邦彦は2010年台の彼の作品群『輪るピングドラム』『ユリ熊嵐』『さらざんまい』において「透明」という言葉を用い、同調圧力の中で代替可能な存在であることを求められ、アイデンティティを喪失していく子供たちの苦しみを描いている。

「革命」
同じく幾原邦彦の『少女革命ウテナ』における「革命」を参考にしていると思われる。多形倒錯的な欲望を抑圧し単純化しようとする世界から、世界の外へ出るという「革命」の選択肢の提示である。

【ストーリー】
本作には2人の女の子が出てくるが、最初の時点での考え方は異なっている。朝陽はこの世界にうんざりしているのに対し、緑奈はまだ世界の中で生きている。

たとえば、朝陽は外着(社会に汚されたものの比喩)を、べとべとして気持ちが悪いとして部屋着を着るが、緑奈は我慢すればいいという。
あるいは、朝陽は自分が社会の中でどの様な存在なのかを説明させられる飲み会が嫌いというが、緑奈はそれを理解できない。
コーヒーフレッシュを大量に入れたコーヒーを我慢して飲むように、この世界の不条理に抗おうしていない。

緑奈の気持ちが変わるきっかけとして友人とその彼氏との3人との飲み会という場面にうつる。
友人もその彼氏も、緑奈と朝日の関係性を単純な関係性の中で理解しようとしており、緑奈はそれに気持ち悪さを覚える。

緑奈はこれがきっかけで朝陽の気持ちに寄り添い、ともに世界と闘う同志となる。
家に帰った緑はべとべとした外着=社会に汚されたものを脱いで部屋着となる。そして2人は広告=同調圧力=ベタベタしたものが嫌いという共通認識を形成する。

緑奈は2人でプロムをすることを提案する。
緑奈は朝比奈に「1人で戦わせてごめん、私も戦う」といい、同調圧力の蔓延るこの世界抜け出し=透明にされることに抗い、「人生共同体」として2人で世界に抗って生きていくという生存戦略をとる。これが「革命」である。

多様な欲望を一つの方向へと収束させようとする社会と、それへの抵抗=逃走というのは、ドゥルーズ =ガタリの欲望解釈に近い。つまり、メラニークラインのようような多形倒錯的な欲望がオイディプス三角形へと収斂される悲劇であり、そこで資本主義の脱コード化プロセスにより全ての人間が債務者となり、一方向へと向かう競争社会の一員となったプロセスである。だからこそ、「いちぬけた」という広告が機能することになる。競争と同調圧力はセットである。
稲葉光春

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