ニューランド

白薔薇は咲けどのニューランドのレビュー・感想・評価

白薔薇は咲けど(1937年製作の映画)
4.2
 伏水は、前世紀からの個人的確信によれば、映画史上の稀なる天才の一人だと思う。見れた範囲でいうと全てが傑作であり、時代劇の山中·フランスのヴィゴに比肩し、同時代の刹那·鮮烈を気づかず記しつけていたと思う。それに最初に気付かされたのが、本作辺りで、調べないと分からないがせいぜい四半世紀·20数年前位の事で、40数年前『支那の夜』で初めてこの作家に接した時は分からなかった(近年見直して、それも大傑作とわかったが)。本作は、クレールの発想·ビジョンの硬さ·鋭さと、カルネの白っぽい柔らかい拡がりが、溶け合い、またそれ以上の世界が現出している。
 カメラが左右に動き戻り、似たサイズでズラせたり·どんでんでカットが変わったり、また他者らのカットが積まれる時、同じ·或いは殆ど似た舞い·動きが繰り返し捉えられる、しかしそれはしつっこさを意味せず、押し花の様な印象が美を確かにまた柔らかくする。何重もの、主観や固定アップや表情や異種の物の長めOL、ワイプの繋ぎも美しい。窓の内外の縦の図やどんでん·物越しの美術とカメラ·人の相乗動きのセット·ロケ、フォローや前後に動くカメラの事象越えた自由さと確かさ、パンの長短·速度の自在さ、身体への上下ティルトや移動、90°変や低い位置からの寄り仰図も確かこの上なし、ロケやセットの暗さから明るさ·雨の強い覆い·花や川や転がり流れるリンゴらの柔らかい無限の拡がり、様々なキャラクターの自在のかしまし喋りの被りや対応·新規流れのアルトマン的多彩スポンタニティ溢る押さえと持続、画面を覆いかすめ流す衣類や布地の動きのアクセントのあまりの鮮やかさ、一斉駆けつけグループ動き重ねと退きでの一体塊り図や·偶然の再会の表情CUへ寄ってく切り返し続き忙しなさも残る印象、歌が惹きつけ集める力·ミュージカル的華やかさのダンサー的な女優動きとカメラワーク織り込み。
 フランス的とも言えぬ他愛なく·脆弱ヒロインの話風で。オートクチュールのかなり立派な店の、仕立て部の、腕あるも、慕う亡き母の失敗を見て、男を悪いと半ば決め·恋愛にもかましい同僚の中、1人「臆病」で同時に「寂しさ」を抱えてる、内気なヒロイン。偶々仲間に煽てられ1人速く出来た花嫁衣装を着てるを、社長·上司に見られ、クビかとみな共々しょげてると、スタイル良さ分かっての、ファッション·ショーのメインの人マネキン抜擢。その月曜前日の日曜は、友達との約束変えられ、1人野原や川に向かうと、似たタイプとひょんな切っ掛けで、続く深夜の店迄打ち解け合い、ときめく。「私は実はしょげてたけど、今は樂しく幸せに」「人格·品格の格別が大事なのに、自由に生きれない、苦しい·悲しい事がある」「(女が一人生き)働き、縛られる事」「いや、もっと···」。翌日起きたところに花が届けられ「意に沿わぬ決められた結婚直前に」と添えられて、会場に行くに心萎え、雨に祟られ、ショーも乗り切れず、そして客席にフィアンセに添う彼の姿。ショーは大成功·即(婚約者から)注文入る。前日の事を詫び·尋ねる友人に、「恋人と。(「どんなひと?」)弱い男」と答える。入江はこのキャラにはとうが立ってるが、それをハンデとしない終盤のねじ曲げ·伸ばしは、クレール·カルネを上回ってるかもわからない。
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