海

CURE キュアの海のレビュー・感想・評価

CURE キュア(1997年製作の映画)
-
黒沢清の映画からきこえてくる「たすけて」は「わたしをたすけて」じゃなく「わたしの感じているような暗やみそれ自体をたすけて」だから、そこにある、孤独と悲しみには終わりがないんだ。電球の切れた物置の片隅や、新しい世界の可能性が全部閉じたあとに残されたやたらに広いリビング、窓の内側で聞く昼間の明るすぎる道路を行き交う車の走行音、そういった、それを見つけてしまった人にしか見ることのできない絶望の中に、そのひとがたった一人で居るという心象風景は、自分自身が暗やみに飲み込まれてしまうことよりもずっとずっとこわい。遠いから、二度と会えない誰かよりも今会えているあなたのほうが。もうどうしようもないから、剥き出しになった心は雨に打たれて震え続けているじゃないか。わたしが本当にこわいのは、こわいものそれ自体じゃなく、こわいものにこわい思いをさせられたひとが、こわい思いの中に永遠に閉じ込められたまま、何処かへ行ってしまうことなんだと思う。ほんとうに、こんなふうに、肉体が生きていること以外をすべて捨て去れたら、わたしたちはようやく苦しみを終えられるのだろうか。十年や二十年の長い間、いつでも抱きしめあえるくらいそばに居ると感じていたのに、ある一瞬の出来事によって、一生向かい続けても指先さえ届かないと感じるほど遠くなってしまった相手が、このひとたちには居る。それがどんなに悲しく、虚しく、あわれで、つらく、死と同等に、あるいは死ぬこと以上に、いま起きるはずのないことだったのか、その重たさが、他の誰にわかるというのだろうか。そのひとが、どこかへ行こうとするのをとめられない。わたしをみている目は、わたしのことをみていない。音楽をきいている耳は、音楽のことをきいていない。「たすけて」ときこえる。あなたの痛みはあなたのものなのにわたしのもののようにわたしだって痛む。それがつらかった。目の前であなたが怯えていても、わたしはそれをみているだけで何もできないのだから。水が流れる、真っ暗な排水溝へ去っていく、火がゆれる、夜を焼き切れず息絶える、光が、点滅をする、誰もいなくなった改札口を照らしている。いくらでも続きがある。いつでも終わりがくる。世界が広いことも、風が心地よいことも、草原がうつくしいことも、海へゆくべきことも、明日は、今日よりまともに笑えるかもしれないことも、あなたはわかっているから絶望した。あなたは歴史と口づてを閉じた。たすけるって、ときはなつこと?わすれさせること?ころしてしまうこと?だれも答えてはくれなかった。強く分厚い暗さが、あなたを連れて行ってしまった夕方。
海