さわだにわか

青銅の基督のさわだにわかのレビュー・感想・評価

青銅の基督(1955年製作の映画)
4.3
圧巻のクライマックスはどこが圧巻かというとやたらとカメラと俳優の間に格子(または柵)を置きたがる格子なめショットの巨匠・渋谷実史上最大の格子が炸裂するところが圧巻なのであった。いやーこの竹製の格子はすごいね!今回は格子をなめるだけじゃなくてロケ地の高低差(渋谷実といえば高低差の巨匠でもあった)を生かして上から俯瞰的に撮るんですが、処刑されるキリシタンと見物客を分かつこの残酷な格子、不思議なことに上から見ると自由なはずの見物客の方が格子に囲われているように見えるのです。この逆説、この皮肉!これが渋谷実だよね~。

っていうわけで渋谷映画屈指の大作と思われますが大作だからとその屈折が治ることはまったくなく、むしろ予算相応に屈折の度合いも激しくなってしまった。未読なのでわからないがおそらく原作は転びバテレンを題材に聖なる死と俗なる生の相克を描いたものだろうと想像するが、その渋谷流解釈は相当にねじ曲がっており、自分の意志とは正反対のことをなぜかやってしまう、自分の望んだこととは正反対の結果に必ず物事が転がってしまう、そのデモーニッシュな運命の力に人はただ為す術も無く流されることしかできない…という、ほとんどブニュエルの不条理劇のようなことをやっている(渡米後のフリッツ・ラングのようでもある)

格子は渋谷のトレードマークだが登場人物が進もうとした先に立ちはだかる壁やどこがどこに繋がってるんだかよくわからない無駄に入り組んだ建物というのも渋谷の好むもので、それは具体的には『酔っぱらい天国』で笠智衆が住んでいる窪地の家(高低差である)や『二人だけの砦』の迷宮的な団地ということになるが、『青銅の基督』では忍者屋敷的な隠し教会のセットがそれにあたり、これがまた不条理感に拍車をかける。隠し教会に比べると転びバテレンの住まわされる屋敷は単純な構造だが、ここはまるで幽霊屋敷で、転向の褒美として、あるいは生存の象徴として与えられたにも関わらずまったく生気がなく、悪夢的。

マニエリスム風というか…登場人物は全員倒錯しているしその人間関係はすれ違いと悪循環しか生まない。シナリオ上では明らかに聖者ポジションの香川京子でさえそうなのだ。生を投げ打つキリシタンの献身も渋谷フィルターをかければ死に価値を見出す倒錯である。怪しいセットの効果もあって実にこう、冷たく歪んだ世界が現出している。山田五十鈴の体現する宗教的マゾヒズムに裏打ちされたサディズムもなかなか強烈である(とくにこの時代の松竹映画として見れば)

「シャイニング」のテーマ曲と同じ旋律なのでなにかクラシックの引用なのだろうが、黛敏郎のあの重い劇伴が流れる中でキリシタン虐殺の光景を食い入るように眺め、克明に記録しているのが無神論者のメフィスト的悪徳商人ただ一人というのはこの皮肉だらけの映画の最大の皮肉である。悪徳商人は虐殺絵は売れるというが誰に売れるのだろうか。格子代わりのスクリーン越しに虐殺を消費する観客なんじゃないだろうか。『気狂い部落』では第四の壁を崩して観客をおちょくった渋谷実なので、こういうメタ的なことは結構やる。

なんだか嫌がらせのような映画だが、これが何が何でも客が喜ぶ方向とは逆方向に映画を作ろうとするニヒリストの唯物論者・渋谷実の真骨頂。なんでそんなに客が嫌いなんだろう。面白いからいいけど…。
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