すきま

ヒア&ゼア・こことよそのすきまのレビュー・感想・評価

ヒア&ゼア・こことよそ(1976年製作の映画)
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東京都写真美術館で鑑賞、何とも言えないタイミング。
最近は、配信で気になったところを巻き戻しながら見ることが多かったので、字幕のスピードについていけない。退化した。
もう一度見たいけど、単体では廃盤。

アフタートークを聴く前の感想。
ゴダールの生真面目に同情する。
少し前にチラ見した『イメージの本』に似ているけど、そっちよりも映画の再構築をしようとしている感じが強い気がした。
切り刻まれた映像、こことよそを繋げないのに絡まっているもどかしさ。
「ここ と よそ」「時間 と 空間」「映像 と 音」という対比が繰り返される。
最近考えていた、西洋の一方通行の時間と東洋の繰り返す時間、それ以外にも時間の感じ方はあり、そうであれば映像や音楽の構造も違うだろうことを再度思った。
編集の演劇性についても。

足立監督と(聞き手は平沢剛さん?)のアフタートークを聴いて、ゴダールが製作費を受け取りながら映画を発表できてなかった時期、メディアの独立を図ろうとグループで制作していた時期と重なっていることなどを知った。
同時期に同じパレスチナを撮った足立監督の『略称・連続射殺魔』については、ゴダールは後年画質改善したのを送るまで見通しておらず、どんな映画か把握してなかったと言われたとのこと。
最近の日本映画は、対象との距離の解離があり、自己(撮り手?)の主体性を抜きにしているのが多くてそれが受けている感じがするけれど、わたしは拮抗しているのが好きだ、批評性の衰退が進んでいる、風景論の意味は、どういう世界を要求するかは、今もいよいよ大切だ、というようなお話だった。
パレスチナ問題は単純にパレスチナが家を奪われただけの話なのに複雑にしている、という監督の主張は、国家レベルで見ると正しくても、個人や民族レベルでは入り組むし欧米の力が作用して来て、そうも言い切れない。
ゴダールの、ヨーロッパのユダヤ差別問題をパレスチナ(と他のイスラエル入植地)に丸投げしているのを、どう外から映すのかというジレンマから、今も逃れられないのではないか。当事者でかつよそごとである。
革命を志向するにはある程度の理想のモデルを作る、つまり単純化する作業が入るのだろうけれど、それは現実には当てはまらない。逆に、複雑さばかり掬い取っていては、物事は何も動かせないのか、とも思う。
途中足立監督が何気なく言った「暴力は抽象」という言葉が、分からなくて妙に耳に残った。

追記:同じ子が倒れている場面が繰り返し挿入される。普通この尺のコラージュ映像だと、もう少し素材(乱暴な書き方だけど)の量を多いのが普通ではないか。
少ない場面を繰り返し見る内に、段々顔見知りの子が目の前で傷ついているように、それがテレビ画面で映されているように、或いはフラッシュバックのように感じる効果があった。
冷静に扱おうともする一方で、やはりゴダールは、出来事の責任を執拗に自分と観客の両方に突きつけている。

単純なものを複雑にしているのか、についてもう少し。
あらゆる殺人や暴力がダメという点は常に単純明快。
ただし、長い差別や圧政の歴史が暴力を正統化しているので、解決への筋道をつけ「傷つけられた民族」という感情を鎮める過程では、複雑さから決して逃れられないし、時間もかけなくてはいけない。
当事者だけでの解決は不可能、というよりユダヤ人を追い出したことのある全ての国、イスラエル経済に貢献している国も当事者だ。
ルワンダ・東ティモール・南アフリカの事後処理例は、成功例だけでないにせよ、前例として参考にすべきだろう。
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