きゃんちょめ

ビッグ・リボウスキのきゃんちょめのレビュー・感想・評価

ビッグ・リボウスキ(1998年製作の映画)
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【のんびり生きるために】
善のことはよくわからないが、悪というのは正義に比べて明確であると思う。痛いとか苦しいとかはみんなそこそこ一致して嫌だと思う。迷惑だと思う。迷惑なことは、全然人それぞれではない。つまり、迷惑がなにかについては、「みんな違ってみんなよい」と言われる度合いが低い。善と悪はこの点で非対称である。迷惑は、「各人で大差がない」という意味で平等である。

善とは、「反転不可能な差別の排除」であるとか、「共同体で培われる徳」であるとか、「最大多数の効用」であるとか、いろいろ言われるし、どれもそこそこ善いことなのかもしれないが、難しい。

しかし、他方で、悪(迷惑)は明確である。そこで、「他人に迷惑をかけてはならない」というあまりにも当たり前なことを行動方針にしてみると、実は思いのほか、けっこううまくいく。

「他人に迷惑をかけてはならない」ということを自分に言い聞かせるようにしてみた結果、最近は、家で本を読んで、ひとりで色々なことを考えたり、バイトをしたり、音楽を聴いたりして、なるべく出世をしない方向に動いている。どんどん何らかのレースから降りていくような気がして、それはある意味で心地がいい。

物事をじっくりと考えているとノリが悪くなり、いわゆるキモくなるだろう。しかも、私の場合、いくら考えたところで答えは出ないような問題ばかりを考えている。だからどんどん変なやつになっていく。

それでも、のんびり、ひっそりと生きていきたい。地位も名誉もまったく要らないので、最低限の収入が欲しい。高望みしなければ、そこそこ私でもメシが食えるはずだと思っている。

処理能力が高くないとメシが食えないような世界の仕組みになっていない、ということはある種の「救い」であると思う。だから、私のようなものでも楽しく生きることができる。しかも、余暇の時間に本が読める。頑張らなくても許してもらえるということほど「恩寵」の名にふさわしいことはない。頑張らなければならないと考えている人々にとってはこのような仕組みはさぞ悔しいに違いない。だからこそ彼らはしきりに「頑張れ!」と言うのかもしれない。

大義や使命感に駆られていないということが大事なのだと最近になってようやく気づいた。そうすれば余暇ができる。大義や使命感に駆られていなくても善いことができるということにも気づいた。私は善いことをすべきだと思っているが、大義や使命感に駆られて善いことをすべきだとは思わない。それはどこか芝居くさい。頑張り過ぎていてつらそうな人を見かけたら黙ってそばにいて話相手になっているだけで十分善いことなのだと思う。

神などいないが、Amazing(神的)なGrace(恩寵)はあると思っているし、そのような体験も、そのような体験の効果もあると、思い始めた。肩の荷を下ろしてのんびり生きていても楽しいし、そのことを楽しんでもいいのである。このこと自体が最大の恩寵だと思う。このような恵みをせめて「譲り渡すことができないもの」として大事に守っていければよいと思う。譲り渡す(=cess)ことの(=ary)できない(=ne)ものとして、私はこうした恩寵がnecessary だと感じる。

処理スピードを上げて、何かを頑張らさせられなくてもいい社会、外からのプレッシャーをはねのけられる社会、本当にやりたいことを各人が内発的に頑張れる社会になればいいのにと思う。「頑張らないことを頑張る」というのでもなく、のんびり生きて、頑張りたいことが見つかったら好きなだけ自然に頑張れる社会がきてほしい。

そういうのんびりできる恩寵の時間が人には「必要」なのである。このことにみんなが徐々に気づいていくだけでも、それは穏やかな革命であると思う。
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