映画漬廃人伊波興一

野菊の墓の映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

野菊の墓(1981年製作の映画)
4.2
「映画を観る」という振舞いにはそれなりの(戦略)が必要である。その事実を知って初めて世評などと無縁の位置で映画と自由に向き合えるのだ。
澤井信一郎「野菊の墓」

例えば1950年代にマーロン・ブランドに魅入られた者がいつの間にやらエリア・カザンんという作家に覚醒したとしても不思議ではないと思います。
三船敏郎や仲代達也のファンがいつの間にやら黒澤映画の殆どを観ているのと同様に。
70~80年代の映画好きがロバート・デ・ニーロを追いかけるうちにマーチン・スコセッシやブライアン・デ・パルマに毒されるの例などもありますが、意識的である、ないにかかわらず大抵の映画好きは監督の作家性よりも主演俳優のスター性に惹かれて映画好きになっていく例が圧倒的に多いと思う。

そんな過程の中でも評価されるべき作品が評価されていく事は好ましい限りですが、時として主演女優の売り込みのような形で製作された為、時間的にも空間的にも身近でありすぎる事から生じる無益としか思えぬような情報の数々で偽りのイメージが形成される不幸な作品も数多あります。

例えば私たち80年代にとっての澤井信一郎監督の「野菊の墓」

ソロ・アイドル黄金期の80年代に多感な時期を過ごしたものが好む好まざるは別として、公開された時、何しろ80年代トップアイドル聖子ちゃんの初主演映画ということで話題沸騰でした。

時計メーカと同じロゴのSEIKОファンの熱狂と同時に、気取った映画ファンの軽視もまるごと抱えて。

実は公開時、まだ中学生だった私は観ておりません。

少し後に、角川映画「Wの悲劇」「早春物語」などがいくら話題になっても所詮はアイドル映画か?などという故のない軽視の連帯に巻き込まれ、処女作とは思えぬ玄人の風格に満ちた「野菊の墓」の真価に全く鈍感であったからです。

澤井信一郎の映画作家としての出自がアイドル映画であったとしてもマキノ雅弘の正統な継承者がそのレッテルのまま封じ込まられる筈もなく、傑作としか言いようがない「恋人たちの時刻」ではさすがに鈍感な私でも覚醒。

「福沢諭吉」、「わが愛の譜 滝廉太郎物語」や「日本一短い(母)への手紙」が申し分のない佳品であることはいつの日かその項目に預けるとして、やはり審美眼の力が鈍った前世紀末・日本人の心の壁に大きな風穴を開けた90年代・誉れの一本「時雨の記」の原点ともいえるような「野菊の墓」を無視する事は出来ません。

「野菊の墓」はそのタイトルから想起しがちな(文芸映画)から遠く離れ、雨、水、空気といったものを画面から気配まるごと肌で感じ取れる映画。
しばしば引き合いにだされる熊井啓の「忍ぶ川」などよりも遥かに象徴性を帯びており、空気や水や音といったものさえにも映画だけが現せる(影)が備わり、推移している事を実感できる点にあります。

それが、主演二人の肉体を通じて、時々理解不能に使用される(風土)と呼ばれる目に見えぬものを実態として繊細に体現されているわけですが、そこに敏感になれなかった私たちリアルタイム世代は、自堕落な世論が軽薄に過剰反応しそうな(アイドル映画)という記号にに惑わされておりました。

私が澤井信一郎に敏感になれたのは違う世代の方々の声と時系列に逆らって作品系譜を押さえていったから。

世評などと無縁の位置で映画と自由に向き合うためには、時として(戦略)めいた観方が必要な場合もある気がいたします。