ナダル

自殺サークルのナダルのネタバレレビュー・内容・結末

自殺サークル(2002年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

内容がめちゃくちゃで観客に解釈を委ねる系の作品かと思ったら、ちゃんと繋がるところもあって面白かった。ただ普通によく分からないところも多かった。

率直に述べると、本作品の主題は「関係」にあると思う。



「あなたと、あなたの関係は何ですか。」

作中でたびたび登場するセリフで、一見すると訳の分からない質問だが、その後に続くセリフを見てみると段々と理解が進む。
例えば、黒田が初めて子供と電話を繋いだ際は同台詞後に、「あなたと、あなたの娘さんの関係は分かります。あなたと、あなたの家族の関係も分かります。あなたと、あなたの関係は何ですか。あなたが死んだら、あなたと、あなたの関係は消えますか。あなたは、あなたと関係できますか。」と続く。

このセリフは裏返せば、「自分と他者の関係は理解に容易いが、自分と自分の関係(アイデンティティ的なもの)は軽薄なものである」と主張しているように伺える。自己判断や自己決定、それに伴う責任などから逃れ、何事においても自己を殺して周りへ同調するという風潮は時代を問わず日本国内でずっと続いているもので、それは特に、高等教育の際に築かれていると感じられる。「自殺ブームだから、俺/私もしてみよう」と社会的風潮が生まれてしまうのも、この同調が極端に表されている。普通であれば作中の高校生の男女数十人のように、ふと思い立ったタイミングで、簡単に飛び降り自殺などできないわけである。「出る杭は打たれる」という諺が示すように、出過ぎた者は憎まれ、そうならないために他者と同一化することで社会に適応して生きていくことになる。こうした自己を犠牲にした同調という風潮が、作中では「自分と関係していない」と表現されている。因みにこのセリフの後半に「あなたは、あなたと関係できますか。」とあるが、これは反語として捉えれば、「あなたは、あなたと関係できていない」ということになる。

また、家族全員が死んでいる光景に唖然している黒田と子供の電話の際は同台詞後に、「なぜ人の不安を自分のように感じ取れなかったのですか。なぜ自分のことのように他人の不安を抱えられなかったのですか。あなたは犯罪者です、あなたはあなたのことしか考えていないゲス野郎です。」と続く。つまり同調を行った結果として、自己判断・自己決定を怠ることとなり、他者の気持ちを考えたり汲み取ったりすることもできなくなる。周りと同じ考えに合わせて自分の考えは一切持たない状態では、思考能力が欠如してしまい、周りの気持ちさえ推量できなくなってしまうのだ。

この時点で、
「自分と関係している」
=「自己を犠牲に周りに同調せず、他者の気持ちを推量できる」

「自分と関係していない」
=「自己を犠牲に周りに同調し、他者の気持ちを推量できない」

という形が完成している。

そして黒田はこの電話後に、「無理だ。奴ら(犯人たち)は敵じゃない。」と呟き自決してしまうが、これはまさに、子供たちが自殺幇助を行う犯人なのではなく、ただ純粋に「あなたと、あなたの関係は何ですか。」と質問しているだけの存在であることを示している。幼少期に子供が「なんでなんで」と聞いてくるのと同じことだ。ただ、そうした質問を子供にさせている人物、またデザートというアイドルを売り出している人物が黒幕という可能性が高いが、本作では明らかにされていない。そしてその質問を黒田が解釈した結果、自己を失っていることに気づき、自殺を決断してしまう。この場面は、自分以外の家族を全員失い、生きる意味を見出せなかった結果として自死を選択したと解釈するのが普通だが、実際は黒田が自己喪失への解決策として選んだ道なのである。そしてこうした作中で示されるすべての自殺が、自己の喪失に対する解決策として表現されている。なぜなら、自殺をすることで自己を社会や他人から断ち切り、本来の自己を取り戻すことができるからだ。自殺をした人物は全員、自己を失っていた者なのである。そしてその自己の回復のため、自殺という道を選んだのだ。黒田の言うように、敵など最初からおらず、一連の騒動は全て事故ということになる。

ただ、もちろん自殺していない人物も大勢存在する。いい例だと、自殺した彼氏の彼女、ミツコが挙げられる。ミツコは子供に、「あなたは、あなたに関係のあるあなたですか。」と質問された際、「私は私が関係する私だよ!」と自信を持って回答している。実は、作中でこの質問に対して明確に答えを言い放っているのはミツコだけである。自分が自分に関係しているということは、先述の論理でいくと「自己を犠牲に周りに同調せず、他者の気持ちを推量できる」ということになる。実際彼女は、彼氏の自殺現場に身を寄せることで、気持ちを自分事として考えており、結果として鉄道自殺をすることもなく生き延びているのだ。なぜ彼女まで皮を剥がれたのかはよくわからないポイントの一つだが、自己を失っている失っていないに関わらず、皮を剥いで繋ぎ合わせる行為自体がカルト的ルーティンのようなものではないだろうか。



「自殺クラブなんてない」

このセリフも、子供たちによって放たれ、作中でたびたび登場している。確かに自殺クラブには、子供たちは関係していない。作中で自殺クラブと呼ばれるものは、ジェネシスらによる殺人集団であり、そこでは廃墟.comというサイトにアクセスしたと思われる人物が白い袋に詰められて殺されていく。これは単なる目立ちたがり屋のジェネシスによるもので、集団自殺の首謀者ではない。流行りの自殺ブームに乗っかっただけの模倣犯である。実際、コーモリの出した警視庁へのSOSを止めずにむしろ促している。またジェネシスがやっていることは自殺幇助というより、ただの拷問に近い。そもそもコーモリは自殺願望すら持っていないように思われる。

ただ作品のタイトルにある通り、「自殺サークル」なるものは存在している。それが、子供たちが関係する自殺煽動集団なのだ。皮が剥ぎ取られ、円状に繋ぎ合わされているのも、「サークル」という言葉に掛けられているのではないか。もちろん作品内ではその集団の黒幕は一切明かされず、目的も真相も分からないため、自殺サークルの実態はほとんど掴めないままである。ただ、そのサークルには子供たちの他に、デザートというアイドルも関わっていることは容易に推測できる。ここで大事なのが、デザートのスペルがいわゆるお菓子を意味する"dessert"ではなく、"desert”になっている点である。意味は、名詞だと「砂漠」、動詞だと「見捨てる」や「放棄する」。パッと思い浮かぶのは、他人の気持ちを汲み取ることができない「心の砂漠」や、「社会や他人との繋がりを見捨てて、生きるのを放棄する」など。何か特別な意味があっての"desert"なのだと断定できる。



長々書いたが、先述したように特定の質問を子供にさせ、デザートというアイドルを売り出している黒幕の存在や、皮を剥いで繋ぎ合わせる行為、その集団の真相や目的など、多くの不明点はまだまだ存在する。ただ、私が本作の主題と勝手に仮定している「関係」という点では、ただの集団自殺をチープに描いた作品ではないと考えている。公開当時の2002年は、バブル崩壊後の就職氷河期真っ只中であり、「キレる17歳」と称されるような少年凶悪犯が多く事件を起こした時期でもある。園子温監督は、そうした当時の世間の薄暗さや社会的風潮を、「集団自殺」という表向きのテーマで表現し、「関係」という本来の題材を世間に投げかけたのではないだろうか。
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