海

お引越しの海のレビュー・感想・評価

お引越し(1993年製作の映画)
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 だれといても孤独であるようにと絡繰られて生まれてきたわたしたちにとって、映画は魔法だ。映画はイメージであり、詩であり、小説であり、音楽であり、ダンスであり、物語であるけれど、映画はイメージでなく、詩でなく、小説でなく、音楽でなく、ダンスでなく、物語でない。重く厚い雲は、突然にバケツをひっくり返したような雨を降らせ、唇をとがらせて黙りこくっていた子どもは、突然に大輪のような笑顔をみせ、落ち着いた声で流暢に言葉をあつかっていた大人は、突然に涙を目にためて怒鳴りだし、とおくからあなたが、体のすべてで風や光をわたしに教え、わたしの記憶をゆさぶり起こし、それが脈絡なく、わたしを泣かせる。映画は、魔法で、記憶で、それは永遠の嘘で、永遠の真実だと思う。

 夜中1時に、ものすごく大きな音で目がさめて、すぐに雷の落ちた音だとはわかったけれど、怖くなってタオルケットを手繰り寄せた。できるだけ薄着でねむりたがるわたしの体は、夏も冬も夜中はかならず冷たい。妙に寒かった。そのせいかしばらく眠れず、壁にかけている数年前に描いた絵を見つめていた。はっきりと起きてはくれない頭で、声も手も持てなかった魂のことをかんがえて、ねむる前に知ったあるひとの夢の話と、それがわたしだけに与えてくれた大事な意味についてかんがえて、屋根や地面を打つ大粒の雨の音をききながら、レンコの声を思い出した。去年の9月にこの作品を観て、そのときは一度も泣かなかったのに、この6月に観たとき、びっくりするほど泣いた。指きりした瞬間から果たされないことが決まっていた約束を思い出した。「夏になったら海へ行こうね」「次きたときはあっちの道から帰ってみたい」「いつかプール忍び込んで泳ごう」「やくそくね」レンコが湖に浸かったまま何度もくりかえしたあの言葉が向かう、レンコの視線のさきにいる幾つものいのちやそれになる以前の小さな光たちに、約束の行きさきをおしえてもらっているみたいだった。こっちへおいでとわたしの手をひいたのは、わたしよりずっと小さくて温かい手だった。わたしの指のさきはその手のひらに包まれ、骨ばった肘、狭い肩の向こうに、大きな目と汗ばんだ額、おとなびたあの子のつくる表情があって、それがわたしにわたしの道をひらかせた。

 夏の日の夕方、庭ではひぐらしが鳴いていて、狭い廊下に立ち尽くすかれらの剥き出しの腕や頼りない背中を、西陽が灼いていた。服をつかみ合い、相手を刺しころすために抜かれた言葉の刃先がレンコへと向いた。そのときなずながお風呂場のがらすを割って、血まみれになったあの手と白いシャツを見たとき、自分が与えられてきたあいの姿を見た。あなたに血を流させた、はげしくて強引であざやかな、明け透けで露骨な、あいを見た。あの手はわたしの母の手だった。あの手は、母の手に守られて大人になったわたしだけの「わたし」の手だった。

 あなたに出会った。わたしが見つけた。もしもわたしが、わたしの母か父だったなら、子どもであるわたしのすがたをみて、あなたはこれから何があっても大丈夫と、心からそう、おもったのだろうと思う。
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