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ナサリンのcinemarのレビュー・感想・評価

ナサリン(1958年製作の映画)
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やっと観た映画祭①

もはや
宗教批判通りこして人間批判。

信仰とは何なのか
信じるとは何なのか
最終的には信じることの無意味さ冷徹につきつけ、そのくせ信仰を失った人間の脆さを何の躊躇もなく描いてしまう。

象徴的なシーン
愛をもって神父に頬を差し出すベアトリス。
この作品において極めて美しい描写の一つであるが、対照的にラストでベアトリスは別の頬を別の男に差し出し、挙げ句の果てには朦朧して歩くナサリオに脇目も振らず、馬車で追い越して行く。
まさに悪魔のような心変わり
唯一のナサリオの救いは商人が恵んだ一つのパイナップル、皮肉にも最終的にナサリオを救うのは神ではなく1人の商人の優しさなのだ。


また、今作の面白いのは、
流石カタツムリ大好き男、ブニュエル。
確か、小間使いの日記においてあんなにもエロティックなモチーフとして使用したカタツムリを今回は無性の愛の対象として使ってしまうところだろう。
おそらく、ベアトリスの男へ愛を感じとってしまったナサリオは自分が聖人であることを肯定しなければならない使命感に襲われたのか、足元にいたカタツムリを手に取ると優しく愛でる。
たぶん、カタツムリでこんなに多様な表現をできるのは映画史上ブニュエルだけなのではないだろうか。
メキシコ人にとってカタツムリ、それほど身近な存在なのだろうか。
日本で言う、アキアカネのように。

話が逸れたが
こんなにも人間にドSなブニュエルはいったい人間に何をされたのか?
これを観た観客はやはりブニュエルという人物への好奇心を抑えずにはいられないのだろう。

ただその反動なのか
実はなんてことはないかもしれないシーンが
物凄く優しく見えてしまう。

例えば、
この作品の魅力的なキャラクター
小人のウーゴは殺人娼婦アンダラの醜さの中に美しさを見出す。
この男の凄さは我を失ってシャベルを振りかざす女の勇ましさに美しさを感じ取ってしまうことである。
ウーゴのファーストカットは木に括られアボカドとバカにされ身動きが取れない描写から始るが、ラストカットでは遠ざかって行くアンダラの背に向かってこの映画において最も純粋に能動的に走って行く姿が映し出される。
これこそ美しい人間の姿だと訴えるように


余談だが、
この映画のヒロイン、ベアトリスは確かに美しいのだが、所謂モデル体型ではなく、少し頭でっかちでアンバランスな部分が妙にリアリティがあって良い。これには既視感があってアンリジョルジュクルーゾーの「恐怖の報酬」の酒屋の女もまさにこれで面だけみると美しいのだけど、フルショットでみるとやはりアンバランス、それが何故かリアリティを感じさせて、風景と馴染んでくる。
不意にこの村女感というか働く女の肉感というかそういうのって現代の映画で感じ取り辛くなってくるのかなと思い、愛おしさすら感じてしまった。
アンバランス体型なヒロインを楽しむというのも、クラシックな映画における一つの楽しみ方なのかもしれないと思った今日このごろ。

久しぶりに動くジュリエッタ・マッシーナが見たくなって来た。

ザンパノ

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