ーcoyolyー

乱のーcoyolyーのレビュー・感想・評価

(1985年製作の映画)
3.5
黒澤明自体が大殿だというドキュメンタリーフィルム。
話は忠実に「リア王」で、それを日本人が撮る時に英国のコスチュームプレイにするのか日本の時代劇にするのかで後者を選んだ、その選択をあの黒澤明がどう見せるのか、という興奮は確かにオープニングにはあった。笛の音が確かに武満で、それで物語に誘われて行くというのは最高の導入部のはずだった。
でもこれ、武満徹に音楽頼んでるんですよ。オープニングとラストの笛の音はともかく、盛り上げるために武満徹にマーラー風のオーダーなんて正気じゃないでしょう、武満徹なんだもの。それはまゆゆに指原みたく振るまえと指示するようなもので、そんなこと強要されたらそら引退するし降板もしますわ。どうしたんだこの人耄碌したのかな、ってなるよね。力がある時の黒澤明ならどうにか工夫するか降ろしてもっと自分好みに従順に書ける人間を強引に立てたでしょう、でもこの時の黒澤はそれをできなかった。

あらゆるところに黒澤明の耄碌が浮き出ている。原田美枝子は「羅生門」の京マチコや「赤ひげ」の香川京子を模倣させられている。あの時の京マチコや香川京子の見る者を惑わす狂気のゾッとする艶やかさは黒澤明自身の持つ女の情念を役者にぶつけて託したものだ。でも、ここでの黒澤明はもはや原田美枝子にそれを託す情熱や余力がなかったのだ。自分の中にあるものを失ったのか単にアウトプットできずに託せなかったのかはよくわからない、ただ、かつてできたそれができずに自己模倣をせざるを得ないことだけはよくわかった。
ピーターだってそうだ。最初の舞が出来損ないの野村萬斎のように見えた。出来損ないの野村萬斎だなと思って見てたら途中で野村萬斎本人が役者として出演してきて驚いたんだけど、私の印象本当そのまますぎたんだなと。これ萬斎師とお父上の後に人間国宝となる野村万作師が所作見てますよね、でもそれをいまいちうまく消化できていない。ピーターだって日本舞踊の人間国宝の息子として生まれている人なので自分に何を託されているか嫌になる程わかっていたはず。でもそれに応えられない。これ全盛期の黒澤明の演出力ならこんな所で放置するわけがないんです、もっとしごいて自分が求めるものを引き出していた。でもこの時はもはやそれができなかった。夢の残骸だけがフィルムに残酷に残る。原田美枝子もピーターも素材としてのポテンシャルは充分にあったのに引き出さない。「赤ひげ」で加山雄三をあんなに美味しく調理できていた人が、ピーターや原田美枝子であっても調理できない。

大殿だ。そこには大殿しかいない。でもこの人大殿になって自分が落とした城の跡に埋れて未練がましく自己模倣を繰り広げてまで何故この映画完成させたのだろうと思う。よく最後までプロジェクト完遂させたなとは思うのだけど、なぜこんな状態なのに映画を撮り続けたのだろう。

多分彼、自殺未遂の後にはもう日本の映画界に居場所なくしてそうなんだよね。大殿が脂乗りまくってた時どれだけ無茶してたんだろうというのは黒澤天皇の伝説から推し量ることができる。でも黒沢天皇ちょっとやりすぎて日本映画界の嫡男や後継者になり得る人材皆殺しにしてしまったんだと思う。だから彼が老いを見せた時に頼れるのは彼を観て勝手に育ったスティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスやフランシス=フォード・コッポラやマーティン・スコセッシのような海外映画界のコーデリアたちしかいない。

既にそこには情熱や魂の残滓しかないのに、それでも黒澤明の亡霊が映画を撮り続けること、その理由はなんなのだろうという興味が晩年の黒澤作品には湧いてきました。
ーcoyolyー

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