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GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊のKunのレビュー・感想・評価

GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊(1995年製作の映画)
4.0
義体や電脳、光学迷彩といった初めて聞く言葉にドキドキしながらSFの沼にハマり初めていた大学生時代を思い出した。

物語後半の流れが記憶に残っていなかったので、なんとなく初見のような感覚で観賞する結果になった。「あれ、もう終わりかい」と体感は45分ほどの気がするくらい充実の一作。

本作の主人公である草薙素子少佐と人形使いが決戦するシーンは、素子自身が「自分という存在を確かめようと意思が先行する余り、自身が破滅することを厭わずに無茶をするシーンにはさすがに落涙してしまった。SF作品に通底している人間とアンドロイドの境界はどこか?それを確かめるために戦う。戦う理由は内在的なものではなく、つまり外にある。どう自分を表現するのではなく、どう外界に対して応答するか、そこに対して苦悩し行動する物語にやっぱり自分は弱い。

少しオタクっぽい話をすると、「ghost」は直訳すると「魂」、つまり人間と実態がない人間らしいもの(AIやアンドロイド)とを区別するファクターの一つである。
最後の場面で、人形使いというインターネット世界の象徴と融合した素子がネットの海を目指す予感を残したのは、半径5mの自分とその周辺の世界ではなく、より広いネットの世界を目指す意思表示、つまり押井守が描きたかったのは草薙素子という1人の生物としての自立のナラティブである。1995年に出した作品としてこれほどにまで今の世界の真実を言い当てているのは恐ろしい(ポピュリズムに敗北する素子の行き先は電脳、つまりネットに広がる無限の世界なのだ)。
Ghost in the shell の副題を読み解くと、義体という外殻(shell)、つまり現在の言葉で言うところの「ガジェット」に囲まれたGhost(魂≒素子自身)がどうそれらと折り合いをつけていくかの物語を表現している。

最後に押井守自身の演出について、彼自身が士郎正宗の原作に最大限にリスペクトを抱いているが、そこには原作版にはあるキャラクターの情感が抜けている、いや抜いているといっていい。押井守作品の特色といってもいいポイントだが、キャラクターの人間らしさを“あえて“出していない。キャラクターをできる限り空っぽの入れ物にしてバッファを持たせることで、キャラクターを押井守の世界観を演出するベースとして利用していると感じる。SFというジャンルであるからこそ成立する手法であるが、世界観とキャラクターの情感の表現を両立させている『AKIRA』のような作品には一歩劣るという評価をされても仕方がない気がする。

本作のテーマを一言で言うと「自分とは何者か?」である。ありきたりでこれまでの数々の作品で語られてきた普遍的で、ある種厨二病的なテーマを中核に据えることと、その押井守の脳内で構築されたSFワールドの組み合わせによっ大衆的な人気を得ることに成功したと思われる。自分自身もこの作品に大学時代に出会ったことでSFにハマったきっかけになった一作であることには変わりない。俯瞰のショットや、位置情報を利用したバーチャルの二次画像はSFの臨場感を出すことに成功している(リファレンス作はリドリースコット作の『ブレードランナー』であるだろうが…)。

最後に、自分が生まれた翌年に公開された作品なので、これまで同じくらいの時間を歩んできた作品と解釈すると、これまで重ねられたきた本作に関する議論の積層のことを思わざる得ないのと、老若男女様々な人が熱狂する本作のリマスター版をリアルタイムに体験できたことに感謝したい。
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