フジサワアラタ

絞死刑のフジサワアラタのネタバレレビュー・内容・結末

絞死刑(1968年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

初めて大島渚監督の映画を観た。

とても好きだと思ったので、記録しておきたいが、適切な言葉を見つけられない。今まで観た映画だとタルコフスキーのストーカーの雰囲気に近いような気がする。

言葉が多かった。
でも、説明しすぎだと感じる部分も少しあったが僕くらいの脳みそにはそのような言葉が必要だった。最初の問いかけのシーンでは大事な言葉(文字)が繰り返されて分かりやすくしてくれていたし、段落が変わる部分での言葉(文字)は迷子にならないような目印になってとても助かった。最後の作文は自分なりに最終的に形成する価値観への方向を示してくれた。
会話劇はカメラの振り方(画面に人物側から入って来てそれに少し振っていた)や長回しと連動していて演劇感があった(演劇観た事ないけど)。セリフを文字で時間をかけて精読したらギリ理解出来そうな位の難易度の論理をちょっと追いつけないスピードで進む感じかとても好きだった。最初は作り物っぽさに慣れなかったが、慣れてくるとリズムが心地良いし、普段より会話が頭に入って来やすかった。不思議。

映像が綺麗だった。
故意なのか分からないが、テーマとモノクロ映像がマッチしていたと思う。モノクロ映像によって現実と想像の世界のあわいが表現出来るのだと思う。これは特に人間(その中でも特にお姉さん)の場合に感じた。現実か想像か、全てのモノクロ人物が曖昧な存在に感じた。
カットやシーンが美しさだけでなく意味を示唆するものだった。小津安二郎監督で感じるカットの圧倒的な美しさとは性質が違うなにか、形態言語のような性質を感じた。
刑場から河川敷、屋上(検事さんや他の職員が折り畳み椅子に座っているとこがめちゃめちゃ良い!)また刑場のシーンや、車座の真ん中でRと姉さんが寝て話している世界と刑場を行き来するシーン等現実と想像が相互貫入していくところがとても良かった。
後半の喋りと静止画部分は伏線回収のような答え合わせのような「そういうことだったのか」とリズムよく納得していって気持ちよかったし、その内容も示唆に富んでいてすごい。

映像はかっこいいけど難解すぎる映画や、映像がつまらないけどストーリーが面白い映画は数多くあるが、この映画は美しさのような一次的な面白さと論理のような二次的な面白さを両立していて凄いと思った。この点僕ががこの映画が好きな1番の理由である。

やっと内容の記録にはいる。

①リアリティという問題
現実と想像の世界の境界区別がふと付かなくなる感覚は誰もが持っている感覚だと思う。僕はよくそのような事かを感じる。夢から覚めた時やデジャブを感じた時、兆候もなくふと感かじることもある。これに対して「姉さんが世界に入り込んできてリアリティを感じた」や「手を触っても良いかい」といった言葉にとても納得がいった。現実の世界を自分1人で生きる場合その構図は想像の世界と変わらない。リアリティには他者と世界を共有している感覚、同じ世界で生きている感覚、ユニバースが必要なのだと思う。身体的接触は同じ世界に入るキッカケになり得る行為だと思う。

②殺しは悪か
人を殺す事が悪である場合、死刑を執行する人も悪であるはずで、執行人も死刑になる必要がある。国家が執行しているというが、執行人死刑の連鎖の末に国家は消滅する。死刑執行人の殺しはある全体の責任であるから個人は無罪であるというなら個人Rをどう有罪と言えるか。そう考えると、「全てのRのために引き受ける」というのは国のために死ぬと抽象的には同じ論理ということであろうか。しかし、朝鮮人として戦うことをRとはズレていると指摘していることから、全てのRとは現実世界のR、想像の時のRといった分人的なアイデンティティの集合体としての個人R(国家に対しての個人と同じスケールの個人)を指しているのではないか。この場面では知事が大事なことを言っていたはず。「国家として君を生かしておけない」これは、殺しを悪と認めた場合に国家の戦争や死刑といった殺しを肯定しきれなくなる矛盾に気づいた思想は国家の敵ということだと思う。「外もこの場所も国家だ。国家が存在する限りやましい気持ちも残る」これは国家は目に見えないが確かに存在しその外で生きることは不可能であり国家の倫理からは逃れられないということだと思う。

このことについて、「人類は人を殺してはならないという規範は存在したことはなく、仲間を殺してはならないという規範のみしか存在してこなかった」という指摘がある。そう考えると、Rが被害者の仲間であったのかが問題である。Rが殺したのは日本人である。Rは在日朝鮮人2世として日本人から仲間と見られていなかった。しかし、日本という国家権力の及ぶ範囲で日本人を殺した。この点から見ても、R自身から見れば無罪で、日本国家から見ればRは有罪である。

その他

検事助手が細野晴臣に似てた。
教誨師が男色なのもブラックジョークとしてウィットにとんでいると思う。これは性別というより性そのものとキリスト教の組み合わせの奥深さだと思う。
1度目と2度目の執行のときの態度の違いについて考えるべきだと思う。
2度目執行のときの目隠しの奥では目が見開かれていた感じがした。映画を通してあまり変化のないRの目に溶け合わずに混ざり合った感情や論理の機微が溢れていて素晴らしかった。
最後の「映画を観てくれたあなたも」は本当にいらなかったと思う。せめて切れ目なく発して欲しかった。「あなたも、あなたも、あなたも、あなたも、あなたも、…」の部分で充分観客自身が「あなたも」と言われている感覚になりそれがちょうど良い具合の示唆なのに、はっきり言われるとなんか冷めてしまう。
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