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ラフマニノフ ある愛の調べのodyssのレビュー・感想・評価

3.5
【芸術家と時代との関係を描いた作品】

いわゆる音楽映画ではありません。芸術家と時代との関係を描いた作品です。ですから演奏シーンは少ないし、その種の見せ場――超満員のホールで華麗な技巧を披露して大成功を収めるとか――もわずかです。

たぶん、それは監督の制作意図だけでなく、ラフマニノフという素材の選び方から必然的に来たものだったと思われます。

ラフマニノフは19世紀末のロシアに生まれ、ロシア革命後は亡命してアメリカに暮らしました。彼の生きた時代、そして彼の運命自体が、芸術家としての存在をまっとうできなかった彼の本質を暗示しています。

今からふりかえって、「芸術家」が芸術家であり得たのは、歴史的に見て実はそれほど長い期間ではなかったのです。この映画を見るとき、そういった事情を頭に入れておく必要があります。或いは、この映画を見ればそういう事情が痛感されるはずだとも思う。

モーツァルトは生涯、その天才にふさわしい芸術家としての地位をまっとうできたでしょうか? シューベルトはどうだったか。逆に、さかのぼってバッハやハイドンの時代なら、「芸術家」は「職人」に過ぎなかった。「芸術家」と「職人」が同一単語だったりもした。日本語でも「芸能人」と「芸人」は紙一重です。

「芸術家」なるものは、ベートーヴェンから始まってブラームス、ヴァーグナーに至る、或る地域の或る時代にのみ成立したきわめて限定的な存在だった。「芸術的なもの」だけならどんな時代のどの地域にもあったけれど、しかし独立独歩でやっていく芸術家、というものが可能だったのは限られた条件のもとでしかなかったのです。ただ、そういう事情が見えてきたのは20世紀も後半以降になってからでしょう。

ロシアで言えば、かろうじてチャイコフスキーは「芸術家」だったかも知れない。しかし彼の活動もフォン・メック夫人という希有なパトロンがいたからこそ可能だった。ラフマニノフについてもライラックのエピソードが出てきますが、「芸術家」への捧げものとしてはメック夫人の財力に比べるといささか迫力に欠ける。人はパンのみにて生きるにあらず、されどパンがなければ生きられない。

アメリカでのラフマニノフの暮らしは、パンと芸術家との微妙な関係を暗示しています。パンを求めれば「芸人」「職人」になるしかない。そして政治=革命が彼を故郷から追い立てる。(故郷ロシアから離れなかったショスタコーヴィチに何があったかは知られているとおり。)二重の脅威から彼がかろうじて救われたのは、献身的な妻あればこそだったらしい、とこの映画は語っています。フォン・メック夫人がいないなら、或いはベートーヴェンをパトロンとして支えたオーストリー貴族がいないなら、その役割は私がやらなければならない、彼女はそんなふうに思っていたのでしょうか。いや、彼女はそんなにはっきりとは物事を考えてはいなかったでしょう。しかし、形はどうあれ、芸術家を支える基盤はどこかになければ、或いは誰かでなければならないのです。ジョルジュ・サンドもショパンを一時期支えたけれど、結局別れてエゴイズムに回帰していった。それは彼女自身も芸術家だったから。芸術を、そして芸術家を支えるのは、結局は芸術(家)ならざる何物(者)かだと、この映画は語っているかのようです。
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