なべ

ゴッドファーザーのなべのレビュー・感想・評価

ゴッドファーザー(1972年製作の映画)
5.0
 「アメリカはいい国です。財産もできたし、娘もアメリカ風に育てました。自由も与えた。家名を汚さない限りは。男ができました。イタリア人ではないが。夜遅くまで遊んでも怒りませんでした…」
久々に聞くボナセーラの独白。話がどこに向かうのか、誰に話しているのか、まだわからない。でも開始早々、彼の神妙な語り口に思わず聴き入ってしまう。
 ボナセーラはそんないい国の警察や司法に絶望して、マフィアのドンを頼りに来たのだが、このシチュエーションだけでドンがどんな人物なのかあらかた説明できてるのがすごい。すごいよ、コッポラ!
 そしてボナセーラはドンにこう耳打ちする。「奴を殺してください」と。ここで初めてドン・ヴィトー・コルレオーネの顔が明らかになるのだが、マーロンブランドにしては顔が違う。ディック・スミスの特殊メイクのせいだ。声色もハスキーに変えて、かなり作り込んだキャラになっている。なのに自然。とてもリアル。本物のマフィアのドンにしか見えない。これぞ、アクターズスタジオ仕込みのメソッド演技だ。
 他にも動物の特徴的な動作をひとつだけ取り入れるなんてこともやってて、意識して見ていると、ああなるほどあの動物ね!とわかるよ。

 ゴッドファーザーは、アクターズスタジオの個性派俳優とそれを想定したコッポラの脚本のコラボが織りなした奇跡の作品だ。大事なことはセリフではなく行間に塗りこめられ、役者の裁量でその行間を豊かに表現してみせる。マーロン・ブランドもアル・パチーノもロバート・デュバルもアクターズ・スタジオ出身の演技モンスターだ。

 例えばマイケルが初めて殺人を犯すシーン。脚本では「トイレから戻ったマイケルはソロッツォとマクラスキー警部を射殺する」くらいなところを、アルパチーノがピリピリと張り詰めた空気のなか揺らぐ殺意を緊張感たっぷりに演じている。そわそわとぎごちなく動く眼、きっかけがつかめなくて挙動不審な焦りが全身から滲み出てる。胃が痛くて吐き気さえ催しそうな表情。目を凝らせば開き切った毛穴から滲む汗まで見えそうな。やがて高架を走る電車の音が近づいたところで、すっと立ち上がる動作の確かさ。覚悟を決めた男の目つきがやばい。発砲に込められた怒りの表情を見逃すな。戦争の英雄が裏社会に足を踏み入れる瞬間を、これほど雄弁に(セリフはない)劇的に描いた映画があったろうか。
 もちろんアクターズスタジオ出身者じゃない役者も負けてはいない。直情型長男ソニーを演じるジェームズ・カーンの直感型体育会系な演技は役柄にぴったりだし、つねにおどおどしたダメ次男フレドー(ジョン・カザール)のあかんたれっぷりも、演技モンスターのなかにあって引けを取らない。周囲を取り巻く端役の一人ひとりがそれぞれに素晴らしい演技をしていて、見事なアンサンブルを奏でている。
 Part IIIがなぜダメかというと、時代とともに演技の仕方が変わってしまったからだ。アクションと親和性が高いノリや勢いでの演技が主流になり、大事なことを行間に忍ばせるコッポラの脚本とは相容れなくなってしまった。演技と脚本が互いに補完し合い相乗効果を産んでいたPart I、Part IIとは違い、かつてのアクターズスタジオ出身者はアル・パチーノだけ。彼だけが妙に浮いた芝居になってしまっている。全体がただの説明芝居になっていて、ひたすらストーリーを追うだけ。アルパチーノの熱演だけが悪目立ちし、かつてのアンサンブルはもうない。
 逆にPart IIIを観ることで、前作、前々作の非凡さがよくわかるという皮肉な続編になっているのだ。
 今回、ゴッドファーザーを観たのは、Part IIIがお色直しされてリリースされるからだ。新撮カットもあり、全体的にシェイプされているらしい。これを見届けるために過去作に目を通しているのだが、これがあまりに素晴らしくて目眩しそうな輝きと、豊穣なムードに酔いしれてしまった。「昔はよかった」はダサい言葉だけど、この頃のコッポラはほんとよかった。
なべ

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