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アカルイミライの010101010101010のレビュー・感想・評価

アカルイミライ(2002年製作の映画)
3.5
昔から何故か惹かれるところのある映画で、約十年ぶり三度目の鑑賞。

浅野もオダギリも藤も、どうしょうもなく不器用。
どうすることもできず、「待て」のサインから一向に先に進むことができず、そこから踏み出そうにも、やり方を誤ってばかりの人生。
(浅野はそれ故に衝動的に人を殺したのだろうし、藤は結局息子たちとまるで分かり合えず、オダギリもムダに暴力性を発露することしかできない…)。
「行け」のサインが出たとて、どのように、どこへ行けばいいのか。
「夢」で見るような「ミライ」は、現実ではまるで見えない。

一方、水槽の中で飼われていて本来真水で生きることのできない「待て」の状態だったクラゲは、思わぬところで川に出て、いつの間にか無限に増殖し、海へと帰って「行く」。
猛毒を持つクラゲの危うさと、浅野やオダギリが抱える暴力的な危うさ(そして実はそれ以上に、群れて動く、何をしでかすか分からない不気味な不良少年たちの危うさ)が重なったりも。
東京湾を目指すクラゲたちの姿に、不思議な浮遊感のある(根っこのない)開放感を覚えつつ、しかし人間は地道に、不器用に、「(アカルイ?)ミライ」へと進もうとする他ないのかもしれない。
そうした、いったん底にまで落ちたようなところから再びはじめようとする二人の姿がいい、のだが、一方で不気味な、根っこのない、若々しい不良少年たちの、危うさを感じさせるミライも暗示させながら終わる。

そもそもクラゲたちは海を目指すが、不良少年たちはどこを目指すのか。
それが漠然とした「社会」というものだとして、そこに彼らの居場所はあるのか?
仲間たちといつまでも群れてやっていくことができるのか、それとも何となく浅野とオダギリのようなつながりでもって綱渡りのようにやっていけるのか、あるいは其々に孤立していくしかないのか…。
(ヘンな話、この当時の高校生は今、まさに、半グレや闇バイトで人を動かしてる側の世代でもあるのだろうし、秋葉原無差別殺人、相模原障害者殺害事件、安倍元首相銃撃事件等をやらかしている世代でもあるだろう。かく言うオレもその世代だ)。

監督が何をもって「アカルイ」と銘打ったのか、皮肉か、あるいはこうして常に世代が移り変わってゆくことへの根拠なき肯定からなのか。
そこは今回もよく見えない。
とはいえ、本作はミステリーやホラーではないものの、『CURE』『カリスマ』をはじめとした「黒沢清的な」不気味な感じはやはり濃厚に漂っている。
クラゲという、記憶を持つのか持たないのか分からぬような、浮遊して漂泊するようなオバケのような生物と、浅野の影に付き纏われつづけているようなオダギリやそれをかなぐり捨てようとしながらも「あいつは一体どういうヤツだったんだ」と問いつづけて生きるしかない藤、そして「社会」に放流され増殖してゆくような薄ら寒さを覚える不良少年たちの根っこのない不気味さ…。

さて、全体に満ちている閉塞感とは対照的に、時々入ってくる音楽には浮遊感とノーテンキさがあったりもする。そこに、何となく救われるような感じもある。重たいだけだと観ていてキツイ。もしかすると「アカルイミライ」の「アカルさ」って、このノーテンキさにあるのかもしれない。
思えば、この映画には閉塞感や不気味さの中にも、どこかクスッとしてしまうようなところもあるのであって、(それはなんとなく落語的な明るさにも近いように感じられる。どうしょうもない不器用な人間の、どうしょうもなさの中にチラッと覗く可笑しさ…)、どんな時代、どんな世代でも、そういったところに「アカルイミライ」の兆しを見たい、…な〜んて解釈すると、監督には笑われてしまうだろうか。