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親切なクムジャさんのMUAのネタバレレビュー・内容・結末

親切なクムジャさん(2005年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

たった一つの大きな復讐を成し遂げるという気力、そして全てが終わった後の空虚。その差が圧倒的に大きく、一気にエンタメから紙一重のリアル(にあり得る被害とも取れる)日常であると体感させられる映画。
ペクを遺族で殺し合うシーンの一連の流れも圧巻。彼らはまるでPTAの親会議・もしくは子供達の学級会議のように復讐方法を考え(この時クムジャは先生の立場で仕切る。ペクが英語講師であった事から2人の関係が下克上のように逆転したことを示唆しているようにも感じる)、まるで初めての身体検査であるかのように遺族は椅子に並び自分が手を下す番を待つ。
この時彼らの心情は視聴者の我々も痛いほど共感出来る。クムジャは犠牲という圧倒的な過去を持った人物であり、彼女の前で登場するペクは燃えたぎった復讐という人物でしかない。
だがしかし今まで庶民として悲しみに暮れて生きていた”遺族”からすると、例え憎しみの人物だとしてもペクは同じように生きている人物であり、生々しい肉の塊である。彼らがペクに刃を向けるときの肉の重み、鈍い感触、全てがまるで、私もこれから手を下すために順番を待っている遺族のうちの一人のように感じるのだった。
その後の遺体の後始末もまるで学級の掃除時間のようだ。集合写真は”修了式”そのものだろう。つまり遺族たちも因果という関係により、亡くした子供達と同じような年頃の社会的集団に属し、「先生の言う通りに」「意見を出し合って」行動したのだ。
のちに遺族が分け合って食べる誕生ケーキは、新たな罪人の復活祭と見てもいいだろう。ケーキは罪人・ペクの血肉であり、その”報酬”を分け合って食べあう遺族たちは新たな罪人である。彼らはそれを正義であり慰めだと互いを黙認し合いながら、「雪が降っているが帰れるだろうか?」とぶつぶつつぶやきながら何食わぬ庶民の顔として再び自分たちの社会に帰っていく。

私はクムジャの復讐、というよりも、クムジャが遺族を巻き込み復讐を仕掛けるという残忍さに強い印象を持った。
彼女も社会から孤立した一人の罪人であり、だが我々と同じようにただただ幸せを願った一人の母である。
しかし13年という孤立した年月が復讐という名目で”他人”を巻き込み、自分の立ち位置に同属させたのだ。そこから生まれたのは決して仲間ではなく、ただの空虚であり、復讐が遂行しても最後までクムジャは孤独だった。
他人は他人、自分は自分。そういった雪よりも冷ややかな人間の心に住みつく”区別”が、私は何よりも怖いのだと思う。
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