高井戸三郎

荒野の女たちの高井戸三郎のネタバレレビュー・内容・結末

荒野の女たち(1965年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

圧巻。

ここにあるのはただの変化球であり、新境地などではない。

カートライトが「お通夜みたいじゃーん」と言いながらウイスキー片手に入室してくるのだが、彼女の言動によって本当にお通夜みたいになっちゃうところ大好き。




もしかすると、本作を、職業的倫理を持ち合わせた高潔な人物が、宗教狂いをも救うために自己犠牲を強いられる悲劇、胸糞話と捉える向きもあるかもしれないし、キリスト者的共同体の良き絆を描き続けてきたフォードがその欺瞞を描いてみせた、遺作にして新境地と捉えることもできるかもしれないが、それは半面である。

というのも、カートライトというハンサム・ウーマンは、明らかにカウボーイ的・男性的誘惑者として造形されており(彼女が男性と思われて登場したことと、その男性的な装いを想起せよ)、誘惑はそのまま、イヴを唆した蛇(カートライトが従事する医者という職業のシンボルが、蛇の絡みついた杖であることを想起せよ)という意味合いでキリスト者的信心の危機に直結するからだ。

アガサが、カーンたち侵略者ではなく、カートライトに深い憎悪を向ける理由、それは狂信的信心だけではなく、明示的に描かれてはいない(わけでもない)がおそらく、彼女がエマに抱いているフラタニティが同性愛に近いものだからであり、アガサの観点からすれば、カートライトはシスターであるエマを誘惑し、棄教に誘う人物と見られ(アガサの呪詛が、バビロンの大淫婦など性的なものに限定されることを想起せよ)、キリスト教を「知らない」カーンたち異教徒よりも、キリスト教を知った上で揶揄してみせるカートライトがより瀆神的であると思われる(最大の瀆神者である蛇=サタンが、もとはもっとも神に近い天使であったことを想起せよ)。

つまり、カートライトの服毒による自死を、説話的に、彼女がキリスト者的信心に反する誘惑者であった帰結と見ることもできる。
そのキリスト教的説話構造の中では、カートライトは蛇=サタンであり、カーンはサタンが連れてくる獣なのだ(再び、アガサの呪詛、獣にまたがるバビロンの大淫婦を想起せよ)。
だからこそ、誘惑者である蛇=カートライトは、獣と共に滅びねばならず、その場合、伝説的な”So long, you BASTARD“は、カートライトが自身の死に対して吐き捨てた、自己言及であるのかもしれない(bastardという呪詛が、marriageという神の祝福を受けないこと=私生子に由来することを想起せよ)。

となれば、ここにあるのはただの変化球であり、新境地などではないのだ。
そして、新境地などという無節操なものでないことは、本作の魅力を毫も減じえない。
高井戸三郎

高井戸三郎