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JLG/自画像のharunomaのレビュー・感想・評価

JLG/自画像(1995年製作の映画)
5.0
「生誕(新生児、またはキリストの降誕)」と名付けられたジョルジュ・ド・ラ・トゥールの絵画は、聖母マリア、聖アンナ、そして産まれたばかりのイエスを暗示した絵画だ。イエスの降誕については「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」にのみ記されている。処女であるマリアが精霊により身籠ることになる。両福音書とも、イエス生誕の予言の記述は多くあるが、実際のイエスの生誕前後の記述は驚くほど簡素であり、実際に記されているのは、「ルカによる福音書」の中の「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」(ルカによる福音書2:6)という箇所である。そして、福音書のテキストから来る、ラ・トゥールの絵画に見えるのは「布にくるまれた」イエスの姿のみである。「布にくるまれ」眠っているイエスと、胸元よりやや低く、少なからず不安定な手つきで新生児を抱くマリア、そして蝋燭を手にしたマリアの母親のアンナ。神の子の生誕というモチーフを、夜の暗闇の部屋の中、二人の母親が、たった一つの蝋燭の炎だけで、その神秘を、静謐なものにしている。

「イメージは喜びだが、傍らには無がある。無がなければイメージの力は表現されない」
(モーリス・ブランショ、「芸術心理学」(アンドレ・マルロー)の序文)

この絵画において、無を暗闇に、生誕(の場面)をイメージに置き換えるなら、喜びであるイメージが暗闇のなかで「見える」ようになるには、光が必要である。「生誕」の絵画の場合、それは唯一の光源である蝋燭の炎となる。しかし不思議なのは、この絵画の光源ははっきりと示されているにもかかわらず、炎それ自体は見えない。聖アンナの右手によって隠されているからだ。蝋の右の部分は見えるが、炎自体は見えない。アンナの挙げられた右手が、宗教的に何を象徴する身振りなのかは分からないが、どうやら、イエスを照らすために、手のひらで炎の光を反射させているようだ。燃えている炎を近づけずに、手のひらで反射された柔らかな光で照らし出すこと。そしてまた、燃えている炎は画面上、不可視であること。光は、それ自体が「見える」ということ以上に、何かを照らし「見える」ようにする。「生誕」の絵画は、光源を隠し、反射された光で照らすことにより、光そのものの存在が希薄になる。「見ること」の原初である光そのものは、ここではイメージに仕えるものとなる。「光あれ。」とは創世記における聖書の、神の最初の言葉である。光がなければ、イメージは「見えない」が、ここではイメージが「光あれ。」と命じているのかも知れない。
そして、この絵画は決して劇的ではない。処女懐胎から神の子を産むという奇蹟や神秘が起こっているにも関わらず、宗教性だけを感じさせないのは、マリアとマリアの母親のアンナがいるためだ。不安定な手つきで新生児を抱くマリア手とは対照的に、イエスを照らすアンナの右手は安定している。母親は、あらたに母親になった娘と、その娘の子どもを安心させようとしているようにも見える。しかし、これが普通に産まれた子どもを見守る母と、その祖母であるならば、幸せな光景の一つにしかならないが、その子どもが精霊により身籠った子であれば、話は違ってくる。一体、マリアとアンナはなにを見ているのか? 2人の視線は確かに、眠る子どもの方へ向けられているが、一点にだけ注がれてはいないように見える。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
(ヨハネによる福音書20:29)

彼女たちは、なにも見ていない。ちょうど、絵画の鑑賞者が、蝋燭の炎を見ていないのに、それが蝋燭の炎だと「見える」ように。精霊によって身籠り、イエスを産むという奇蹟は、その説明不在の光によってイメージとして見ることができる。表象としての絵画は、「見えること」がすべてではあるが、「生誕」の絵画における光源は隠されつつも、彼女たちは隠されていない。そして隠されていない二人の女性の眼は、なにも見ていない。「見える」ことにより信じるのではない。均一な光ではなく、イエスのいる中央にあてられた強い光が、イエスを取り囲むようにいるマリアとアンナまで届き、二人により遮られた光が、背後の暗闇に余韻を残して終わる。
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