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夜の子供たちのotomisanのレビュー・感想・評価

夜の子供たち(1996年製作の映画)
3.9
 息子が弄ぶテニスボールが死ぬまであの手から逃げられそうにない。そんな、獲物を逃がさないような顔つきのまま、頭を撃ち抜かれた父イヴァンの葬儀の隙に父が奥の手と隠し置いたワルサーを当然のように一存で相続する。
 あれを使う相手は山賊稼業で身を立てた一家にとっても仇のような立場を選んだ伯父であろうか、父親のシマを引き継ぐに違いない母親の再婚相手、ジミーだろうか。
 この息子を以って「夜の子ども」とするのはともかく、「たち」とは誰だろう?

 子どもに準ずるのならジミーの妹、ジュリエットだ。大学の学費は香水窃盗で稼いでいつも誰かを殺してやりたいと腹に溜め込んでいるが、きっと真っ先に殺したいのは自分自身で、そのきっかけは道ならぬ恋また恋。例えば刑事、あろうことか窃盗団のボスで死んだイヴァンを怨敵と嫌う当の弟と馴れ初めてしまうとか、そのためにド・ヌーブ哲学教授との調和が揺らぎだすとかだ。
 穢れなくせば三位一体という一方で、物質界も人間界も三体問題は容易に落ち着かない。ドヌーブ教授が著わす「評伝ジュリエット」の最終章にふさわしいこの哲学的人間課題が現実を映す中でどのように破綻してゆくかといえば、子も孫もある教授と子はおろか妻も疎んじそうな刑事アレックス、親の顔さえ知らなさそうな子、ジュリエットの間で恋やら愛やらが何であろうかと問われる節も感じられず三人はただその外形を絵に留め、体を預け合うので精いっぱいと眺められる。

 心からの笑顔もなく相手への慈しみも覚束なげな三人がひとりジュリエットが消え、教授が擱筆と共に没し、他人とならざるを得ないと悟った刑事がジュリエットの生まれ変わったような姿を映し鏡と心にとめながら、かの遺稿となった評伝をどのように読解してゆくのかがもう一つの関心となるべきであるが、それは観衆各人の愉しみとされざるを得ない。
 ただ、ジミーに引き継がれた組織が現代の要請に応えてリヨンを離れマルセイユに移るなら、生まれ変わったジュリエットにも新たな暗雲が及ぶだろう。それを呼び込むのは当のジミーであるか、彼を新たな標的と見定めた刑事であるか。実は話の接ぎ穂を求めてやまない作りとなっている。
 そこにもう一人、あの息子が義父としてジミーを迎え、彼に臣従するそぶりで新しい組織と市場をいつ簒奪するか、また、伯父の刑事とどんな一騎打ちを遂げるのか。あれから四半世紀、決着のつく頃合いだ。
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