イホウジン

雨に唄えばのイホウジンのレビュー・感想・評価

雨に唄えば(1952年製作の映画)
3.9
【2021年1本目】
何重もの虚構の世界たるハリウッド

誰にでも分かるようなストーリーでありながら、構造は意外と複雑だ。映画内における現実と虚構が何度もすれ違い、時にそれらが交錯したり、虚構が1周回って現実に回帰したりする。まるで劇映画のフィクション性を意図的に誇張しているかのようであるが、それでもなお今作が王道のミュージカル映画として観客に親しまれてきたのが面白い。虚構の世界をも支配するハリウッド(=アメリカ)のソフトパワーを実感させられる。
この虚構と現実の入り交じりが特に顕著なのが、主人公が惚れた女にプロポーズする場面だ。彼は「演出がないとうまく気持ちを表現できない」と言い映画のセットの世界に入り、霧を出す装置や照明を自らセッティングし、歌唱パートに入る。そしてそのシーンでも、常にそれらのギミックは映像に入り続ける。だが当然今作が劇映画である以上、映像には映らない所にもスタッフがいたりカメラがあったりする点も注目しなければならない。この一見すると作り手が手の内の現実を明かしてしまうような図でありながら、実はそれすらも計算づくの虚構であるという二重性が、今作に万人受けする独創性を与えているのだろう。
そしてこの構図は映画の各所に散りばめられている。序盤の主人公の相棒の歌唱シーンからは、往年のコメディ映画を想起させられる。映画のラストでは、それまでの虚構の世界が観客のいる現実の世界にリンクする面白い演出が成される。そして中盤からは「映画を制作する映画」となり、この映画の重層がさらに増していく。多様なフレームが登場し、それらが時に重なり時に衝突していく中で、ハリウッドという虚構含みの街の姿が表現されていく。
そしてこの虚構と現実の混在は、そのまま主人公が劇中で向き合う問題にもリンクする。虚構の世界でスターに成り上がった主人公は、時の流れの中で自らの現実の空虚に苦しめられる。ある意味アイデンティティが乖離した状態であるとも言えるのだろうか。そんな中で邂逅した新人女優は、彼に幸福に満ち溢れた現実を与えることとなった。そこからの物語は、いよいよ彼の虚構と現実が一致し、新しい次元の幸福を目指し始めるものとなる。
全体を通したストーリーは、完璧なまでに不幸な出来事が起きないとても楽な気持ちで観れるものである。ここまで幸福続きだとかえって不幸の不在に違和感を感じてしまうのが私の意地汚いところだが、たまには多幸感溢れる世界を眺めるのも悪くはない。

一つ気になってしまったのが、今作の登場人物の一人であるリナの描かれ方だ。彼女は今作で唯一の悪役だが、その悪の表現方法はとても偏見に満ちたものである。中盤からは彼女の声が彼女を批判する対象となる訳だが、声のルッキズムとでも呼ぶべき、声質に関する優劣がひたすらに強調されるのが観ていて少し苦しかった。これは決して過去形の話ではなく、「理想の風貌には理想の声がつく」という観客に無意識的に刷り込まれた固定観念は、現在の社会でも十分に温存されているように思える。ある特定の声質をマイナスなイメージと結びつけられた彼女は、果たして本当に悪なのだろうか。
それに対して「彼女のキツい性格にも問題がある」という反論があるかもしれないが、それについても慎重にならなくてはならない。今作はある意味、社会ダーウィニズム,自然淘汰の映画だ。音声付きの映画に適応できた人々は業界に生き残り、できなかった人々は業界から旧型の人間として追い出される。この区分で考えると、彼女は明らかに後者の人間であり、他の登場人物はみな前者である。映画技術の進化を高らかに褒め称えることは容易だが、その中で亡き者にされるオールドタイプのそれに対して気にかけてしまうと、今作が意図的に描かなかった部分が気になり始める。この不毛な生存競争を圧倒的な喜劇として描いてしまうこと自体が、実はとても残酷なことなのかもしれない。
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