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狼と豚と人間のotomisanのレビュー・感想・評価

狼と豚と人間(1964年製作の映画)
3.9
 同じ痛みを分かち合えることが仲間の証しならともだちの数も相当減るだろう。しかし、痛みのもっと向こう側、いのちが掛かったヤマにぶち当たってもともだちでいられるだろうか。ともだちだけじゃない、身内なんて何だろうだの、人間って何だろうだのあれこれ考えてしまいそうだ。

 金や地位なんかを目当てにして身内を食いものにしてきた一郎、次郎が組織の金をめぐって争うところ、奪う側の次郎の手先となった三郎が機を制してお宝を横取りする。しかし、三郎は隠し場所を当人ばかりか仲間が締め上げられてもまるで口を割らない。
 やがて兄弟の仕業と割れて組織の命で一郎が奪回役を振られるが、そこで兄弟3人の身内の名ばかりなことが確かとなる。組織の庇護と栄進を餌に三郎を言いくるめる、一足先に人間らしい金回りと暮らしを勝ち取った一郎、金の隠し場所を吐かそうと締め上げた三郎に向かって命懸けの土壇場で、弾ぁ食らったって痛かねぇぞと急旋回、仲間気取りするオオカミ次郎、みんなうそ臭くてどうしょもない。

 警察の介入を恐れた皆殺しで残された一郎が組織からも放り出されて思うのはきっと自分の明日のいのちで、明後日には組織の手で冥途送り。また次郎、三郎とあの世で会うのだと思えば気が重いだろう。
 なら、突っ張り切った格好の三郎はあれで気が晴れただろうか。目も眩むような大金と違法薬物を背負いこんで、どんな生きる目算が立ったろう。長い人生なんて苦痛にしか思えまい「豚の住処」で悲哀苦痛のいい見本、敵視ばかり投げ合った大人たちも嫌なら、その外側でのうのうと経済成長する他人たちはもっと嫌だろう。
 一方、同じ境遇の仲間も三郎には元々色合い様々だったに違いない。そのさまざまが次郎から締め上げられて、一郎から修羅場に置かれて違いの悪さばかりが際立って頭に響く。だから、隠し場所を仲間にも漏らさず、ついに組織の連中へ命乞いに走った仲間を撃ってしまう。

 あれは裏切り。見ちゃあいけないものを見てしまい、あれが最後の思い出ならどうしよう。いっそ、気に食わない人でなし一郎もお調子野郎の次郎も撃っちまうのかと思ったら、そうは監督もさせないらしい。というか、もとより近過ぎた他人な彼らはもうお呼びでなく、実は仲間も信じられなかった三郎の兄ふたりと内面は同じ類の人間で、だから、人一倍ヒトが悪くなれ、成長もできる人材だった事が想像できる。そうなる手前で死ぬ事で何かを免れても、引き金に力を籠めるだけで人を撃てる状況で、子どもの出口に立って仲間を信じきれない負い目が激発する殺気だか背信への怒りだかに負けたのか?聞いたって、分かんねぇよと返ってくるんだろうが、なんか気になってしょうがない。
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