keith中村

細雪 ささめゆきのkeith中村のレビュー・感想・評価

細雪 ささめゆき(1983年製作の映画)
5.0
 U-NEXTの回し者ではないが、ここは有難いことに市川崑作品が多くて、結局お盆の間に市川崑作品だけでも10本も観てしまった。
 市川崑の最高傑作がどれだなんて話は、みんなで「市川崑総選挙」でもしないといけないくらいな大変な騒ぎになっちゃうだろうけれど、本作がこの時点での「市川崑の集大成」である、という書き方なら首肯いただける方が多いんじゃないかしら。
 
 さて、本作は「時をかける少女」と同じ1983年の映画。
 なぜ「時かけ」を持ち出したかというと、当時中3だった私は両親とともに劇場でそれを観たから。
 「細雪」はそのしばらく前の公開だったんだけれど、こっちにも「観に行くか?」と誘われた私は、あまり触手が動かずパスして、結局両親だけ観に行ったと憶えている。
 余談だが、「時かけ」の和子ちゃんが持ってる日本人形は、「細雪」で妙子さんが作る人形とそっくりですね。
 
 で、「細雪」の方を最初に観たのは、たしか1987年で大学1年のとき。
 リバイバルしたんだったか、封切館以外で掛かったのか覚てないが、当時クラブ活動として映画研究部にいた私は先輩から勧められて観に行った。というか、当時の映研全体が「『細雪』劇場に掛かってるんなら行くでしょ?!」という空気になって、三々五々ならぬ一々二々くらいな感じで観に行ったものだ。
 封切じゃないんだから、多分わずか1、2週間の公開期間だったと思うけれど、当時我々は顔を合わせりゃ、「もう観た?」「うん」「お前は?」「週末に行くつもり」とそれが挨拶になっていた。
 観たら観たで、みんなでさんざん語り合ったものだ。
 
 中3でなく大学1年で観たのは正解だったと思う。
 これは、若すぎると面白さがあんまりわからない種類の映画だと思うから。
 ただ、そこから34年経った今観た感想としては、「18歳の私は本作のいったい何が面白かったのだろう」ということ。
 いや、当時から映研部員のほとんどが本作に熱狂的だったし、今でも強烈に面白かった記憶はあるんだけれど、今回鑑賞して感じた程度よりは全然面白さを理解していなかったんだろうということも悟った。
 
 それを説明するには、当時の1年上のF先輩が私より先に観てきた時の言葉が的確だろう。
「三松が全面協力なんで、サービスショットが凄いんよ。あれなら、映画の見方が解ってないおばちゃんたちも大満足よ」
 まあ、F先輩にしても当時の私にしても「映画の見方」がはたしてどれだけ解ってたかというと恥ずかしくなっちゃうんだけれど、その意味では「映画の見方」が今より未熟な私たちをも三松の着物や帯以外で満足させて劇場を出させる要素や力が本作に大量に入っていたということだ。
 
 もう不可能な仮定だけれど、中3のときに観ていたらそれはそれで、やっぱり楽しめただろうし、じゃあその場合はどこをどう楽しんだのかを確認してみたいものだ。
 
 余談だけれど、私が観た回も「おばさま」たちが結構入ってて、着物や帯がアップで映るたびに座席のあちこちから嘆息が上がっていたのを今でも思いだす。また、終盤にある「サービスショット」、今なら「フードテロ」ならぬ「着物テロ」とでも言おうか、では文字通り「ざわざわ」という音と、「はぁ~、綺麗なあ」なんて言葉まで聞こえてきた。
 市川崑、すごいっす。
 
 さてさて、34年前の鑑賞時に人生経験の少ない映画小僧であった私が、演出・カット割りを中心に味わっていたのは間違いない。
 冒頭の「花見の席での会食」がいきなりの見事なカット割りから始まっていて、ここは私自身がその後自主製作映画でパロディにしたこともあるくらいだ。
 今年の春に観た「あのこは貴族」はまさに「現代版細雪」だったんだけれど、あちらもやっぱり「家族の会食」から始まっていた。
 
 今回観なおしても惚れ惚れする。
 「お金?」という幸子のセリフから始まり、しばらくは幸子と妙子での会話が続く。この間、場面の説明ショットはなく、ずっと二人のアップだけ切り返される。
 妙子が雪子に話を振って、そこから3人のアップ、幸子が貞之助に振ってようやくその場の4人全員の会話になるんだけれど、初めて「複数名が同じフレームに入る」ショットが、誰と誰なのか、誰にピントが合っているのか、そこが素晴らしい。
 同じ四姉妹として、アメリカには「若草物語」があるんだけれど、あっちの主人公は間違いなくジョー。
 しかし、市川崑の「細雪」は主人公が明確にされるような描き方じゃないので、観る年齢や立場・心境によって、誰が主人公かという感じ方が違ってくると思う。
 ではあるけれど、実はこの最初に「同じフレームに入る二人」によって、明確に主人公が提示されているわけだ。
 
 遅刻して鶴子がやって来るあたりから(ちなみに「あのこは貴族」もやはり遅刻者一名だった)、「引き」のショットも入り出すんだけれど、やはりここでも「誰と誰が喋っているか。誰が誰を見ているか」が、人物たちの関係性をものすごく雄弁に語っている。
 
 お金の話をしているのもあって、カット割りが緊張感をどんどん高め、観ているこっちもヒヤヒヤしてくる。
 それが極に達するのが、鶴子と幸子の「拘ってる」「拘ってまへん」の執拗な応酬。一触即発という場面だ。
 ところが鶴子から矛先を収める形で、緊張の緩和が訪れ、幸子も笑う。
 貞之助・雪子・妙子ならびに見ているこっちもほっとする。
 この家族の、会話に表れていない関係性を「画」が全部説明してくれる。
 
 そこから、「(後で振り返れば)この家族にとっての最後のみんな揃ったお花見」という非常に美しいシーンへ移行し、その次に原作通りの「こいさん、頼むわ」が始まるわけだが、見事なまでに「摑みはOK」なんですね。
 ラストシーンではこの時の花見がリフレインするんだど、そのラストショットはやっぱり「同じこの二人がフレームに入っている画」だったりするんですね。
 もはや映画の教科書だ。惚れ惚れする映画だわ。
 
 ちなみに「誰が真の主人公だったか」は、実は終盤の「あれが嫁に行くんや」のくだりで明示的に描かれる。
 熱心な映画ファンには蛇足とも言えるシーンだけれど、「三松の着物目当てに見に来たおばさまたち」への親切な説明としては必要だろう。
 というか、映画史的にもっと重要なのは、このパートが実質的に和田夏十の遺稿だということ。ノンクレジットだけど。
 市川崑のベターハーフだった和田夏十は、70年代くらいからクレジットされることがなくなっていき、後を継いだのは本作もそうだけれど、日高真也。
 それは和田の闘病生活が原因なんだけれど、それでも脚本にはずっと関与していた。
 ……なんか長い「ちなみに」だし、ちょっと湿っぽくなってきたんで、話を戻します。
 
 ともあれ、市川崑の作品のほとんどが、「アップにおける表情と視線」で描く作品なんで、これもミュージシャンでいうところの「手癖」、つまり「何にも考えなくても、体が覚えている感覚だけで勝手にできちゃうプレイ」なんだろうと思うけれど、「手癖」でそれができるのが、とんでもないことであるのは間違いない。
 
 ...…なんてことは18歳の私でもじゅうぶん言える表層的な内容。
 今回観返して新鮮だったのは、なんと「いちいち笑える」のですね。
 それこそ冒頭の舌戦から何から、緊張の場面でも、ほんっとにずっと声を出してケラケラ笑ってた。
 この感覚は18歳では味わえなかったなあ。
 なんで今回笑えたかというと、緊張の場面が怖すぎて勝手に自分で弛緩しようとしてたから。ホラー映画のスラッシャー場面で、描写が残酷すぎて、思わず笑っちゃうことあるじゃないですか。
 あれと同じ笑いが出ちゃう。
 会話がリアルすぎて笑う。これは関西弁という、自分のネイティブな言語で語られてるから余計にニュアンスがわかるってこともあるけれど、「こういうこという人いるいる」「ああ、こういうこと自分でも言っちゃう」みたいなのは半世紀以上生きてきた今こそ、より楽しめるところでしたよ。
 セリフと言えば、「台詞校訂」という役割に松子夫人がクレジットされてますね。
 
 雪子役の吉永小百合は、昔は「いつもの吉永さんロールだな」と思い、しかし本作におけるファムファタールっぷりは当時から気づいてたけど、観返すと加えて雪子さんに相当頑固で、ちょっと底意地の悪いところが透けて見えたのが収穫。実は、吉永さんのキャリアの中では結構例外的な役じゃないですかね。
 今回、「ゆきこ」の漢字変換で「雪子」「幸子」両方候補に出てきちゃうので変換ミスがないか、かなり心配です。もし誤変換あったら、脳内で補完しといてくださいね。
(っていうか、ここまで読み返した時点ですでに2か所発見して修正しました)

 なので、話を変えよう。
 もうここから下は本作に全然関係ないので、飛ばしちゃってください。
 
 大学時代に私が下宿していたのは、阪急六甲駅から少し上がった「六甲登山口」の五叉路。
 すぐ近くに「エクラン」という何十年営業続けてるんだ? って古い古い喫茶店があった。
 我々若造が気軽に入れる感じじゃなかったんだれど、やがて先輩から風の噂が流れてきた。
 曰く、「ちょいちょい店先で見かける経営者らしいお婆さん(我々はエクラン・ママと呼んでた)は、若い頃絶世の美女で、芦屋時代の谷崎が惚れこんで通い詰めたらしい」。
 当時はまだインターネットがなかったし、「エクラン」に乗り込んでそのお婆さんに話を聞きにいくような猛者もいなかったんで、真相は謎のままだった。
 ネットが普及してから一度調べてみたんだけれど、情報は何も得られなかった。
 
 とだけ書いて終わろうとしたんだけれど、今ググったら新事実がありましたよ!
 って、どれだけ書いても「ふーん、そうですか」以上にならないんだけれど、個人的に非常にすっきりしたので、書きます。
 
 ググるとうちの大学が地元の歴史をレポートしているPDFが見つかりました。
 それによると、「エクラン」は昭和9年開業だって。親父の生まれた年じゃん! すごっ……。
 阪神大震災で全壊とある。うん、これは1995年以降に久しぶりに六甲行ったときに分かった。
 1986年当時の「エクラン」とエクランママの写真が載ってる! 懐かしい(←入ったことはないんだけどね)。
 
 あと、谷崎にまつわる真相はこう書かれてました。
 「猫と庄造と二人のおんな」について言及した箇所で、
《谷崎もこのあたりまでロケハンにきていた可能性がある》

 ちなみに、「猫と庄造と二人のおんな」の該当箇所は、
《庄造は、まだおもてが薄明るいので、その提灯を腰に挿して出かけたが、阪急の六甲の停留所前、「六甲登山口」と記した大きな標柱の立つてゐる所まで来て、自転車を角の休み茶屋に預けて、そこから二三丁上にある目的の家の方へ、少し急なだらだら路を登つて行つた》
 となっている。
 だらだら路は多分六甲台の法学部へあがる坂。途中に教会があって、いい雰囲気なんだ。

 うん。確かにこれを読んだ学生の誰かが「角の休み茶屋」を「エクラン」だと思っても仕方がないし、「庄造が猫に逢いにいく」が次第に「谷崎がエクランママに逢いに行く」と捻じれていったとしても不思議じゃない。
 「猫と庄造~」の発表は「エクラン」開店と同じ昭和9年だし。
 
 なるほどなあ。
 ということで、34年振りに「細雪」と谷崎について、それぞれ新たな気づきがありました。
 おしまい。
(このくだり、面白がってくれるのはフォローしてくれてる大学の後輩のWくんくらいだろうなあ)