せいか

キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャンのせいかのネタバレレビュー・内容・結末

4.5

このレビューはネタバレを含みます

7/19、NHKBS枠で放映されていたものを視聴。
以下、感想メモ。

実話に基づく映画作品で(とはいえ一個の作品とするためにそこまで忠実なわけではなさそう?)、主演はレオナルド・ディカプリオが演じている。ディカプリオが出てる作品って大体映画として面白い傾向にあると思っているけれど、これも案の定面白かった。ひたすら社会的信用度というもので殴られていたけれど(俺に刺さる)。
翻って「われわれは何であるのか(ないしは何のつもりであるのか)」を考えてしまう作品であった。何者かになるなんていうことはあり得るのか。どうしたらそうなれるのか。
実話ベースながら一個の作品としてテーマをきちんと抱えた作品で、かなり見応えがあった。

まだハイスクールに通う裕福な少年の主人公が父親の事業失敗からの母親の不倫、離婚という家庭環境の破滅を目の当たりにしてそのまま逃亡し、主に小切手絡みの詐欺師としてパイロットや医者、法律家として活躍する話で、それを執念深く追いかけるFBIとの追いかけっこの様子が描かれている。タイトルも追いかけっこのときの言い回しからきているとのこと。

主人公は平穏に過ごしていた頃から何となく酒瓶のパッケージを剥がすなど、「パッケージを剥がす」という行為を手癖のように行うのだが、これが本作のキーになっている。というのも、あらゆる偽名を用いてあらゆるもののふりをしながら詐欺師として活躍する主人公そのものを表わす行為だと言えるからである。その固有性を表現するものを剥がしてただの酒が入った瓶にするなど、これは不安定で何もない存在である彼を端的に表現している行為であるのだろう。
主人公はハイスクールに通っている途中で社会からあぶれた人間で、人生を偽ってあらゆるものの振りをするが、実際は何のスキルも持たない人間でしかなく、「何もない存在」なのである(司法試験は2週間勉強したら受かったとは本人は言っているが、これも結局別人として演じるためのものであった)。その彼が次々と社会的信用の高い役職の仮面を被って、それに騙された人々から金を巻き上げていくのだからかなりの皮肉があるし、同時にこの社会のどうしようもなさを感じもする。社会は表で輝く役職で人を判断するというか。パッケージの付加価値さえあれば社会は容易く騙されるのだ。これは主人公が高飛びするために行ったスチュワーデス採用のくだりにも表れていて、採用された女性たちがスチュワーデスという制服を纏い、その役職に酔い痴れながら歩くのを男たちは特別な目で見るという一連のシーンにも表れていると思う。
現実問題にしたって、何らかのパッケージングをされた個人に価値を認めるなんていうことはザラにあって、偽って過ごす主人公は自らを「何もない存在」と言ったけれど、彼でなくても日の下で健全に生きている人間の少なからずが実際は「何もない存在」と言えるのだろうなと思った。皮一枚剥がれればわれわれに何が残るのか。この点、かなり好きなテーマだなと思ったし、本作、かなり面白いなと思って観ていた。
主人公を通してもこのパッケージというものは印象的に描かれていると思う。制服というものを通してもそうだし、弁護士になった後、自分のデスクに掲げられた偽名をしげしげと眺めるシーン、捕縛された後に牢屋の扉に書かれていると思しき本名のシーンとか。
制服といえば、まだ主人公がハイスクールの生徒として家庭で過ごしていたときの学校の制服とか、それを着てグレードが下の所へ転校して周囲から浮き、いろいろあってフランス語教師のふりをするシーンとか、父親が銀行でうまく商談するために専属運転手のフリをするために身なりを整えるシーンとか、彼が出奔する前からやはりこういったところが印象的に描かれてもいた。表面なのだよなあ。

こうした彼の行動は作中でほぼ同時並行的に描かれる、社会的信用を失った父親の凋落とも比例するように展開していて、観ていて主人公がトントン拍子でうまくやっていく中に引きずるような切なさをずっと感じさせる。パイロットになったとか、何になったとか、お金はあるからとか、主人公は作中で幾度も父親に手紙を書いては実際に会って会話をしたりしていて、本作、この父子のやり取りが胸を締め付ける。夢を見続けるような調子で父親を慕う主人公に、現実に追いやられながらも(そして息子が犯罪人だと知ってもなお)その息子を頼りとはせずに、しかし彼を我が子として愛する父親。母親などは本作ではかなり蚊帳の外で一人気ままなものである。彼女はずっとこの家族の輪から外れた所に居続けている。

主人公は作中で両親に勘当されたナースと婚約を交わし、そこで使っていた偽名の存在として生き直そうとする。ここで彼女の父親に対して彼は素直に自分が偽った存在であり、本当の自分は「何もない存在」であることを告白するけれど、結局それは信じられず、惚れた女の前ではそういうものだよなと受け流されてしまうくだりがある(かなり切ないシーンである)。
尚且つ、このときに、きみの正体はロマンチストなのだとも言われるのだけれど、これはかなり的を射ていて、主人公が実際どういう人物であるのかを端的に言い表していたと思う。彼は夢に生きて詐欺を通してあらゆるものになり変わり、金を手にして豪勢に生きている。ただ生きているだけでもこの世は舞台だが、彼は恣意的にそれをこなす訳者なのである。そしてまた自分の家族への眼差しもロマンチストのそれで、不倫を知ってもなお母親と父親の絆を信じる無垢さだとか、母親が思っていた人ではなかったと父親から知らされてもなお最後の潜伏先をフランスにある母親の故郷にしていたところだとか、とにかく彼は無邪気な少年として生き続けている。鬼ごっこの鬼から歓声を上げながら逃げる子供のように。

フランスで逮捕されて劣悪な環境に置かれたのちにアメリカへ送られるときにずっと自分を追っていたカールから父親が既に事故死していることを聞かされる(父親が最期は駅の階段から落下して孤独のうちに死ぬのもまたつらい)。彼は慟哭し、何とか逃げ出すと母親が住まう所を訪れるけれど、そこで見たのは彼女が既に新しい家庭を築いている現実で、それに打ちひしがれる間もなく彼は再び厳重に逮捕される。かつてうまくいっていたときは善き母としてふるまって夢のような家庭を演じていた女が、家が傾くと途端に別の男(しかも父親の友人)と不倫して自分は裕福な立場を固持してぬくぬくと新しい家庭でまた善き母を演じているという強烈さ。これが彼を夢から目覚めさせたのだろうなあ。そして鬼ごっこも終わるのだ。

終盤、彼は偽造小切手を見抜く才能を認められてカールの尽力もあり、ほとんど監視下に置かれた形でFBIで働くことになる。ここでいつまで働けばいいのかも不透明なまま、まるで鎖に繋がれたように山ほどの仕事をひたすらこなすことになる。偽りの存在でなくなった本当の彼は、結局、そういう偽りの人生を通して残ったもの(=詐欺能力)によって生きるしかないのだ。先も見えないままに。
だから彼は再び高飛びをしようとするものの、空港にいたカールと向き合い、彼の家庭の事情を聞かされた末に「おまえは逃げないよ」と言われることで主人公は結局、月曜日には仕事場に再び現れてFBIに留まり、貢献し続けることになるのだった。それからはエピローグとして主人公も家庭を築き、偽造防止小切手を発明するなど、偉大な仕事を成し遂げたこと、カールとは今も友人でいることなどが文字情報として語られて作品は終わる。

作中は主人公を追うカールもまた嘘つきであることが取り沙汰されるのだけれど、そのときにカールが「ウソの中のほうが楽なのさ」と語る箇所も印象的である。主人公ほど露骨に他人の仮面をかぶるまでもなく、誰しもパッケージングされることで安堵するところもあるんだよなというか、現実から離れたところで何かを演じることで楽になるところはあるというか。それが実態ではあるんだろうけれど、何とも息苦しさがある。主人公はそういう清濁を併せて呑むことができたことでこの落ち着いたエンディングになるのだろうけれど。
嘘の世界に生きることを肯定することで彼はやはりこの状態のままロマンチストとして生きているのだろうか。
そしてやっぱり、ロマンチストとして生きることも奪われ続けたあの父親のことを思うと本当につらい。愛だけではどうにもならなかったんだものな。シビアである。でも、「何者かになる」というのはパッケージを剥がした先にあるものだということもメッセージとしてある作品だと思うので、そこに残るものの一つが「愛」ではあったとも思う。その点、この父親はそうであり続けたのではないだろうか(そして、それに対して母親のほうは少なくとも作中で描かれる範囲においてはパッケージの表層的な世界に生きているのである)。
せいか

せいか