Happa2001

パーフェクトブルーのHappa2001のレビュー・感想・評価

パーフェクトブルー(1998年製作の映画)
4.0
ストーカーやインターネットに対する認識の低さなどは隔世の感があるが、実存の喪失、偶像が一人歩きして実体化してしまうというテーマは今でも、というかそれらが実現し、あちこちで暴走している現在だからこそ、この映画に確かな見応えを与えている。
個人的には夢と現実が曖昧になっていく後半から尻上がりに面白みが増していったように思う。特に幻想と現実の錯綜のさせ方に、アニメーションという技法の凄みがあったように思う。具体的にいえば、前半で現在の出来事に過去の出来事を挿入するシーンで、一瞬今映っているのが過去のことであるということを認知する、気づくのが遅れてしまうということが自分の中で起こっていた。あとから考えてみるに、実写映画を作る際には、場面を変えるということは場所(位相)や時間を実際に変更してしまう必要がある。しかし同じようにアニメーションにおいて場面変化を実行しようとすると、それらは一枚の絵であるために実写ほどに明確に場面が変化したということを表しにくいという特徴がある。さらに言えば、実写映画には、バラバラに撮影された写真が描かれたフィルムを切断し、継ぎ接ぎするという行為が映像に大きな影響を与えるように、アニメーションにおいては、(作家のイマジネーションを原動力として)事前にその構成が(細部まで手が加えられ、映像制作に偶然性を排除していくようにして)ある程度既に繋がっている、つまり連続性を先天的に保ったままで(出来上がった形をなぞるように)製作されるという制作過程が、アニメーションをアニメーションたらしめ、かつアニメーションにしか持つことのできない精神や伝えることのできない思想を生み出している。このような特性によって、場面やカット同士そのつなぎ目がシームレスになり。先ほどのような今映されているのが一体いつの時間軸に属するのか、どの地平に位置しているのかの認知が遅れるという事態が発生するのではないだろうか。しかし後半においては、このシームレス化を幻想/現実の二つの世界に適用し、それらを自然に接続・撹乱するというふうにその特性が利用され、それがサスペンスなどといった物語性、ドラマ性とは別の、むしろそれらをはみ出していくような映像としての面白さを作り上げている。
彼のフィルモグラフィーを鑑みるに、今敏監督は前述したアニメーションの持つ連続性、統一性などといった特性を自覚し、その上で意識的にそれらを限界まで駆動させていったという点で、宮崎駿、(特にアニメーションの特性やその派生する精神や思想が構成する世界の外に出ようと試みた)庵野秀明などとともに稀有なアニメーション作家としてこれからも参照されうるのだろうと思う。そして、その稀有な作家性がこの映画にも、全く損なうことなく刻印されているのだろう。
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