あなぐらむ

白昼の通り魔のあなぐらむのレビュー・感想・評価

白昼の通り魔(1966年製作の映画)
4.1
「悦楽」で愛と金(経済)の二項対立を描いた大島渚の次の課題は、「無償の愛」。
田村孟の筆は、戦後農村の近代化におけるインテリの”因習”への敗北を軸に据えつつ、不気味な欲望の化身/ムラ社会の「因習」そのもの=佐藤慶の通り魔をめぐる二人の女の思惑をぶつけ合わせ、スリリングな犯罪劇として成立させている。

戸浦六宏の村長の息子は団結を訴えるが、洪水の被害と人々の分裂であっけなくその理想は崩れる。戸浦は金と引き換えに貧農の娘・川口小枝と通じてしまう。愛は無償ではなかったわけだ。
学校教諭であり「自由」「平等」「愛」を教える小山明子は戦後を生きるインテリであるが、同時に村落共同体の構成員である以上、その中で引き裂かれ続けざるを得ない。理想としての「無償の愛」はあらゆる場面になって理想でしかない。彼女も犯されている。無償の愛は無い。小山明子も敗北している。二つのインテリの思想としての死。そこがこの物語の悲劇である。

自分を犯した男の村を捨てて、都会で気ままに暮らす川口小枝(明らかに暮らし向きがよくなっている事が分かる)を、過去の悪夢=佐藤慶が追いかけてくる。
自分を犯した男。死にかけた自分を助けて殺した男。生き残ってしまった女。ここには太平洋戦争で酷く国土を犯し、傷つけておきながら、何度も寄り添ってその精神的土壌を変えようとする米国という存在が転化され、戦後日本の反映と日本民族の心の在り様のアンビバレンツが、田村孟的な図式的な方法で描かれている。

少しずつ明らかになっていく男女四人の姿を、ぐっと締まったフレーミングと鋭角なカッティングで大島は描く。随所に再掲されるメインタイトル。思い出せ、と言わんばかりのタイミングで出されるそれは、この後の大島「新宿泥棒日記」でも多用される手法だ。冒頭のレイプシーンには若松孝二っぽさが横溢している。

民俗社会や旧来の日本では心中の死に別れというのは差別される存在だ。その事がこの心中物語の根幹をなしている。だから川口小枝は都会に出る。因習なき地で生活をしていた。しかしそこにも、まるで戦時中に死んだ者の亡霊のように、佐藤慶のような男が現れる。法が彼を裁く事が告げられたあと、彼女はもう一度心中で生き残り、村に戻って行く。非常にどっしりとした足取りで、村落に帰って行く。したたかに、逞しい存在として、村へと帰還する。

川口小枝は「女賭博師」では随分な下手っぷりだったが、本作ではカメラアイに愛され、小山明子よりもよほど魅力的な「にっぽんんの女」として定着されている。ふとましい腕はどうだ。白い肌はどうだ。ぶっきらぼうの台詞使いはやがて、この観念的な会話劇の中で際立ち、理論を壊していく。
佐藤慶のモンスターぶりも特筆に値する。トリックスターとして、原始的な欲望の化身として、見事に作品のタイトルロールを演じている。
小山明子のクールな美、如何にも田舎の学校のいそうな頭でっかちの教員はよくはまっている。この物語は「二十四の瞳」や小津作品への強烈なアンチテーゼだろう。
刑事役の渡辺文雄の少しいやらしい感じもいい。小松方正と殿山泰司は出落ちみたいなもの。

大島は「愛の亡霊」でも同様の問題を扱っているが、こちらでは二人に死を与え救済している。本作はどこか今村昌平「にっぽん昆虫記」「赤い殺意」翻案にも見えるが、その鋭利な語り口、風景映画としての味わいもあり、女優の発見という意味では印象に残る一本となった。