ニューランド

白昼の通り魔のニューランドのレビュー・感想・評価

白昼の通り魔(1966年製作の映画)
4.9
 初めて観た時は子供だったが、半世紀は経ってしまった。封切ではなくて、封切の、その年のベストワンが年半ばで既に確定していた『儀式』の併映としてだった(地方はロードショーからして、2本立てだった。例えば『チャップリンの黄金狂~』+『~ザルドス』,『脱出』+『大いなる勇者』といった)。当時はプリントの劣化度もあり、『儀式』が上だとおもったが、数年経って見直すと『~通り魔』は、世界映画史上の有数の傑作と思うようになり、点数でいうて4.9、その後観る度に0.1上がり下がりしてるが、『~夜と霧』『~通り魔』『~春歌考』『絞死刑』『儀式』五本ある大島の映画史のトップに君臨する作品の中でも、頭ひとつ抜けてる。
まともに映像化すると4時間はかかるという、田村の脚本がまず凄い。『~の夜と霧』ほど大きな問題は扱わず、『二十四時間~』ほど詩的でもないが、この練り込み方は、それらを上回るかもしれない。「俺の女房は世界に何かを為すという偽善者で、俺はそれをひき裂いてやりたかった。しかし、俺が松子やシノに出会わなくても、小山田英助は小山田英助で同じ(凶悪犯罪の)道を」「私もみんなと同じような(気取らない)恋愛がしたかったんよ。シノちゃんが英助を愛してたと同じような」「いや、私は英助を憎んでた」「それなら私も一緒」「いや、個人個人別々だったんよ」「いや、それでも結びついてる、私達は。生き残ってきたが、英助の(死刑判決の)この日に、私も死なねば」「私達も結びついてる?」「ええ、そうよ。源治さんとシノちゃんが心中したあの場へ」そういった言葉·会話は論理的ではないが、この風土とそこでの生理·生活の積重ねからは、それしかなく、また、それは限りない風土に広がってゆく。多分に神経症だとしても、より広い何かへ届かんとす。それは展開の形もそうで、犯罪や動機を追い詰め、解決したように見えても、日と場を変えてまで、心情以上の吐露·浸透の流れは、一見果てがなく続く。
 『忍者武芸帳』の名残りかの細分に細分化した撮影·編集、独立プロに多い予算誤魔化しのハイキーの陽光溢れるトーン、長尺脚本の為か·前半にあるべき豚や鶏を百頭前後飼ってた·村の若者らの共同体の洪水流されで崩壊の2年間を描けなかった事、時代を突き抜けた特殊犯罪者への接近、時代に流され闘う人間等を描いてきた大島の自らの‘魔’を描き始めた作品である事、違和は大島作品の付き物だが、特に本作は多い気もする。その中でも、キャラの30歳や20り離れてない女優陣はともかく、20代後半の戸浦、そして実年齢40に近いのに、20代前半を演じてる佐藤慶は、少し可笑しいと感じてしまう。しかし、その年齢不詳感は、本作のえもいわれぬ深さ·懐かしさ·不気味さ、現代を挟み駆け抜けるスケールを与えてる気もする。その中でそれらを受け止める、小山明子の演技は凄絶であり、時代と係わる観客も含めた人間の身を切るようだ。
 源治は、村でも約束された家柄を、風穴を開けるべく、松子ら若者と畜産共同体を推し進めるも、挫折、「寂しさ」に苛まれ、密かに関係し支えてもいるシノとの心中へ向かうが、松子とはこの決められたコースも続けられると、心中の前にプロポーズもしている。英助は、ビジョンを徹底して持たず、「先生がよければ、俺はどっちでも」と、結婚にも動じずまた歓びもなく、応ず。その分、他人の観察に長け、自らの欲望に忠実だ。母の家を出て、味気ない英助との生活を続けてる今も、「恋愛は無償の行為」と見返りを考えない純粋な活動を疑わなかった畜産物グループの2年間も、冷ややかな対人関係のベースはあり、自己の責任が感じられる度に荒廃し、無かったろう絆をより底で存在を確信しようとする。若いシノは、貧しい一家心中も考えてる実家にたいしても、金を出してくれた源治への身体提供も、心中で時分だけが生き残っても、常に感情に溺れず、具体未来を見つめていたいだけ、倦怠感もその一部に過ぎない。
 回想やイメージでしか出てこない源治は、ハイキーでの首吊り樹木からのぶら下がりや、松子の汎ゆる角度捉えにその度背景にいて冷静に話してくれる。冒頭の英助のシノへの暴行シーンは、顔や部位の(超)CU、汗等の生理、切返し·対応·建屋内外出入り等にに関して異常に細かく·被った図の部分もあるのではないかと思わせる一方、90°変などは異常に律儀正確で引き締める。担ぎゆくフォローめパンや移動、大鏡写り込み、等も端折ることなく描き尽くされる。林光の音楽は、打楽器中心にせいて高める者から、郷愁が寂しい狂気に至るのに変容し、やがてそれらはより高く強いレベルで合わさってゆく。農村の風土と理想の紡ぎがタッチの中にも感じられてきて、鋭い不意の蘇りイメージから、手紙のやり取りと回想が前の部分の不充分さをひっくり返し合い、新たな真理探求の現れと救いようの無さがかき混ぜあってゆく。2人が落ち合う、松子の側の修学旅行引率の、大阪の街から新幹線の中での移動の2人セット化に向かい、伸びてく観念だけでなく、肉体も再び動き出してゆく。周りの風景や、それへの同化で、カメラも鋭くパンを伸びやかに加えるようになり、やり取りの顔の部位CUの極度サイズ対応やも、流れるパン等で繋がりもしてくる。同じ繰返し像のイメージが互いを追い繋がり続けてもゆく。釈然とは決断を下せぬ松子の、自己を痛めつけるような性向は、非難よりも日本社会の傾向と合致歯てゆく。L(俯瞰鳥瞰図)やズームも、細め朝井カッティングも、時代性を表し、使われてく。無理はスタンダードとなり、手慣れたやるせなく、元より有ったは、理想か、そんなものの存在しない社会の空気かを、突いてゆく。
 2人の女の内的·外的接近、事件の捜査の進展、共同体の深層、個人の力、触れ合い絡みながらそれぞれが、主体と自然を持って、それぞれ勝手めに突き歩み、直接影響を与えぬ·何かを深め広げでゆく。以前は、犯罪や憎しみ·愛を矢印で結んだ図式を、あからさまに出したりして、先走り浮足立ち作と見られる面も、と思ってたが、そこへ収斂してゆく事はないのだ。
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