ニューランド

深夜の歌声のニューランドのレビュー・感想・評価

深夜の歌声(1937年製作の映画)
3.2
☑️『深夜の歌声』及び『レ·ヴァンピール 吸血ギャング団』▶️▶️
中国映画史上の重要作を網羅したフィルムセンターでの、特集上映は20世紀の終盤には間を置かず行われてた気がするが、今世紀に入ってよりは国家間の軋轢·国民感情もあるためか、ぐんと頻度が落ちたようだ。特に世界映画史上のTOPにカウントされる事も珍しくない、『深夜の歌声』『田舎町の春』はここでしか観れない気がする。個人的には、成瀬とドライヤーとルノワールが溶け合ったような反中国的な『田舎町~』を中国映画史上最高傑作と持ち上げるに、30数年間迷いはないが、続篇も含め『深夜~』はずっと苦手だ。寂れた劇場と劇団の意地·因縁から始まる、優美で機能的なカメラワークと編集·ディゾルブ·ワイプ·アイリス、曰くありげな壮麗で脆弱な埃と蜘蛛巣·泥地包むセットのムード、囲む霧や闇や(下方からの)照明·豪雨粒の怪奇効果、西洋音楽多用と早回しの盛上げ·スマート感、語りと月光が高める臆面もないロマンチシズム·理想(「伝える真の友を探し」)、傾き·揺れ·格闘·時制·狂正気·追跡·舞台公演図含めた90゜や切返し·どんでんで長く堅固に組立てた「教訓、大衆の自由へ、地主·警察ら反革命への闘い」のドラマパート、高めあげて·その次·目を背けない怪奇味とオーバー音響·リアクション、モブ力と逃走切替え·たたみかけるモンタージュのスピード·切迫感、それらは実体の弱い気配り·要領に長けた映画の見本市のようだ(悪くはないが)。寝不足のまま席に着いたので、またうとうとしてしまった。伝説の名監督に失礼だとは思うが、また10年後位に見直してみるか(その真価がわかるのに、前にも書いたがスピルバーグ25年、大林 40年も要した例もある)。
---------------------------------------------------
この前後、ネット配信1月5日までという、20数年ぶりに観ていた、よりプリミティブで映画の本質に叶う作品と比較していた。映画が何者でもなかった頃から、技法·スタイルが触手のように生まれ這いずりピタッと骨格に定着し、役者·キャラの肉体·感情が自律的に動きだし生命を得てのたうち、やがて映画という代替えの出来ぬメディアだけが上澄みとして残り呼吸してく。20数年前、1910年代の大傑作は、米·グリフィスと伊·史劇or女優(ディーバ)ものしかないと思ってたので、これには本当に驚いた。破天荒さ·始原の力ではフィヤードの前作『ファントマ』、映画を突き抜けた風格·威厳·完璧さでは次作『ジュデックス』に引けをとるかも分からないが、‘映画’の喜びを全面体現し、そのものになったのは、これ『吸血ギャング団』だ(つのだじろう初期の名作『ブラック団』と同じくらいいい)。
日本語スーパーはないが、復元も少しばかり進み、犯罪他のトリックがチャチなんてチャチャも入れられない、威容だ。比較的短い尺数の前半1~5話では、 『ファントマ』で完成されつつあった、対象とその廻りの作品特有の温度·空気にフィットし、あからさまな姿を感じさせず溶け込みスタイル化したものが、確かに生まれていってるのを感じる。縦の構図、FめからのMサイズ寄りや逆にLに切替え、斜めに角度変や少し位置ズレての退きサイズへ、上下に分割対応、3段から4段の寄りサイズ移行·CUへ、カーテンや戸口ごしの図、壁の·映画的無視の行き来や隣室対応、屋外の·強め仰角等角度付けやあき空間大や車フォロースピード留まらぬ加えの解放·集中の両面。とりわけ、室内の対象を軽く追っての横パンからのいつしかスーと横移動が目立たず常態化していて、それに繋がる角度は強く付けない部屋·廊下·戸·間の出入りの克明な·ドラマの要請や緊迫も伴っての出入りの·複数多めに至る空間と行動押さえの可能性の拡がりが、鮮やかさを押さえ込んでて実質として、全ての映画の基本提示·開発定着への素晴らしいベース·原点となり得てる。透明感と本道の納得が続く、形式感。基本かつ手つきの精妙さで、粋でもあり得る。
10数分から30数分主体で、シリーズというより映画表現の褪せない基盤を示し築いた前半に対し、1時間近いのもある挿話が長めじっくりめの後半6~10話。6~8話では、人間の内面的激しさ·消耗·妄執、一方の生物的機転·行動エネルギーの尽きなさを描き込んでて、辟易しながら憑かれてゆく、圧倒役者とキャラの密度を、塗り込め展開し尽くし、深め極めてゆく。軽妙·のり過ぎ·悪趣味·かついじられキャラの、メインの記者の·母親に次ぐ近しい·相棒のうだつの上がらない中年が、それまでを引き伸ばし·映画の楽しみを形にしていたのが、明らかに対決·打倒すべき悪のキャラ、肉体も今の時代感覚からは、女性の附帯の余り的ももろ悩ましい部分を当たり前に見せつける·イルマ·ヴェップの、表情·その隈部分の深まり·如何様にも転身·変容に、作品の磁力の中心が移ってゆく。グループ·相方·命令系統を、次々乗り移り·裏切り·成り変わり、その魅力を凄み·弱さの反転·開き直り以上のものとして、果てることなく魅せてゆく。時にシリーズ展開の度合い外れてじっくり過ぎる位に。人間そのもの·更にその奥·中心を剥き出しで目の当たりにしたように息をのまざるを得ない。
そして、9·10話で、映画は完全な格·リズム·バランス·ピースはめ込み·流れ·結末への、最良モデルケースを示してゆき、イルマ·ヴェップらも呆気なく最期を迎え命を途絶えさす。
ニューランド

ニューランド