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レイジング・ブルのkuuのレビュー・感想・評価

レイジング・ブル(1980年製作の映画)
3.8
『レイジング・ブル』
原題Raging Bull.
製作年1980年。上映時間129分。

1940~50年代に活躍しミドル級チャンピオンにも輝いた実在のボクサー、ジェイク・ラモッタの半生を、『タクシードライバー』のマーティン・スコセッシ監督&ロバート・デ・ニーロ主演コンビが映画化。

映画がモノクロームで作られた理由は、時代の信憑性のためとして、主にロッキー(1976)、 
ロッキーII(1979)、
メインイベント(1979)、
プライズファイター(1979)と区別するためだそうです。
もう一つの理由は、マーティン・スコセッシがその血をすべてカラー写真で描きたくなかったそうっすよ。
また、原作の中でジェイク・ラモッタは『今、時々、夜になって思い出すと、自分自身の古い白黒映画を見ているような気がするんだ。
なぜ白黒でなければならないのかはわからないが、そんな気がする』と。

主演のデ・ニーロは引退後のラモッタの姿を再現するため27キロも増量して挑み、アカデミー主演男優賞を受賞。体型をも変化させる徹底した役作りを意味する「デ・ニーロ・アプローチ」という言葉を生むきっかけとなる。

後に『ブロンクスの猛牛』とも呼ばれるようになるジェイクが、八百長試合を強いてくる組織との関係などに悩まされながらも栄光をつかみとる。
しかし、妻のビッキーやセコンドを務める弟ジョーイに対し猜疑心や嫉妬心を募らせていき、信頼できる人間が離れていくことで凋落していく。

プロ・ボクシング元ミドル級チャンピオンで、"ブロンクスの怒れる牡牛(レイジング・ブル)"の異名をとったジェイク・ラモッタ。
スラム街から這い上がり、不屈の闘魂で王座に君臨した栄光と破滅の半生。

本作品は、リアリズムと幻想性の混合物。
映像と音響のテクを駆使して描かれる超現実的なファイトシーンが観てる側に伝えんのは、スポーツとしてのボクシングじゃなく、リング上のラ・モッタの五感がとらえたであろう凄絶な光景の再現であるかな。
肉きしみ、骨折れ、血潮飛び散る、暴力の原始性にわれを忘れることの麻薬的とも云える恍惚感。
特に、51年のシュガー・レイとの最後の試合はホンマ鬼気迫る。
しかし、スゴいんはスコセッシはそこに『美』を見いだして、彼の芸術の高みに押し上げとる。
よくあるボクシング映画とは違い、本作品のクラ イマックスてのは、個人的に思うにラ・モッタがリングを引退したあとに訪れる56年。
ナイトクラブのオーナーになった彼は別人のように太り、家族から見放され、ささいな事 件に巻き込まれて取り乱してゆく。
こないなボクサー崩れは沢山いる。
周囲との関係が上手いこといかへんラ・モッタにとって、ボクシングは自分の世界に閉じこもることのできる唯一の手段やったんやろな。
せや、それを失った彼の姿ってのはまるで敗残者のようであり、ホンマ見苦しく悲しい。
そんなラ・モッタの魂の救済の行方を本作品は見つめはじめる。
彼は、コンクリートの壁に頭を打ちつけ、拳が潰れるまで殴り続けた末に絶叫し、なんで俺がこんな目に遭うんだと。
そして呟く、俺はバカや。。。と。
スコセッシがボクシングをメタファーにして描いたんは、人生における情熱 魂の
獣性、
孤独、
狂気、
加えて究極的には、愛の問題なんやと思もう。
中盤に出てくるプライベートフィルムは唯一カラーで描かれる幸福のイメージが、なぜか深い悲しみを称えてる様に見えるのは、それがもう二度と取り戻すことのできない過去の象徴やからかなぁ。
ラストに、ラ・モッタは鏡のなかの自分に悪くなったのはお前のせいだと呟く。
彼は自身の真実と折り合えたんやろうか。
kuu

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